前回の【余呉湖(よごこ)】の続きで、滋賀県の琵琶湖一周旅行を取り上げます。
旅行記
五泊六日の琵琶湖一周旅行の、第一日目最終目的地が奥琵琶湖の菅浦(すがうら)でした。
この日の宿泊は、「奥びわ湖を望む宿つづらお」。
宿と菅浦散策を一緒に書くと、写真の枚数が多くなるので、今回は菅浦散策について書くこととし、宿は次の記事で紹介します。
奥琵琶湖の菅浦はどこかというと、
赤い風船マークのところ。
前回の余呉湖(よごこ)からは、車で40分くらいのところにあります。
奥びわ湖を望む宿つづらおさんの駐車場に車を停めて、チェックイン手続きを終えた後、徒歩で菅浦(すがうら)散策に向かいました。
菅浦の湖岸集落は、平成26年10月6日、国の重要文化的景観に選定されたところです。
葛籠尾(つづらお)崎の西側入江に、81世帯・217人が暮らしているそうです(ウィキペディアからの情報)。
まわりが険しい山で囲まれているので、昔は陸路ではなく船で行き来をしていたようで、集落の東西に「四足門」を置き、出入りを厳しく監視していたそうです。
現在は、奥琵琶湖パークウェイという道を通って、集落へスイスイ行くことができますが、冬季はけっこう雪が積もるようなので、ご注意を。
お宿のつづらおから見た、奥琵琶湖。
左に見えるのが、「葛籠尾(つづらお)崎」で、写真真ん中にポコッとある島が、琵琶湖最大のパワースポットとも言われる竹生島(ちくぶしま)です。
湖岸の道をテクテク歩いて、菅浦集落へ向かう。
漂着物も少なく、美しい。
菅浦の港。
チェーンを巻いた除雪車がありました。
けっこう雪が積もるようです。
菅浦内を散策する時は、個人の敷地へ立ち入らないようにとの看板がありました。
西の四つ足門。
菅浦には、西と東に四つ足門があり、ここで村の出入りのチェックしていたようです。
かつては、郷土史料館付近と祇樹院(ぎじゅいん)南側の神社に向かう道にも設けられ、集落の領域と下界を区切っていたのだそうです。
四つ足門の隣には、お地蔵様。
そのまた隣には、神輿(みこし)堂。
神輿堂の隣には、鳥居があります。
「須賀(すが)神社」。
明治42年に3つの神社を合祀したそうです。
御祭神は、淳仁天皇、オオヤマイクノカミ、オオヤマツミノカミ。
説明書きに「淳仁(じゅんにん)天皇の墓と伝える舟形御陵が残る」と書いてありますね。
淳仁天皇・・・、去年の秋の淡路島旅行で、この天皇の名前を見ました。
南あわじ市のうずしお観潮船に乗って、鳴門のうずしおを見た後、沼島が見たくて土生港へ向かったのですが、その帰りに淳仁天皇陵があったのです。
写真はグーグルマップのストリートビュー。
「さようなら、淡路島~」と車を走らせていたら、右手側にこんもりとした林と鳥居が見え、一人の女性が鳥居の前で手を合わせていました。
車をノロノロ走らせながら周りを見たら「→ 淳仁天皇淡路陵」の看板があり、
(あれ?? 天皇の御陵って、淡路島にもあるんだ?)
と、気になりました。
大正、昭和天皇の御陵は東京都八王子市にありますが、それ以前の歴代天皇の御陵はだいたい京都、奈良、大阪、滋賀にあり、「島」に御陵があるのが意外だったのです。
神奈川に帰って調べてみたら、過去の天皇の御陵で、ヤマト王権中心エリアから外れている御陵は3つ。
淳仁(じゅんにん)天皇・・・淡路島
崇徳(すとく)天皇・・・香川県
安徳(あんとく)天皇・・・山口県
崇徳(すとく)天皇は有名ですね。怨霊になった天皇 という本まででています。
安徳(あんとく)天皇・・・、こちらも源平合戦・壇ノ浦の戦いで有名な天皇ですね。わずか6歳で母方の祖母・二位尼(平時子)に抱かれ、海に身を投げてお亡くなりになられました。
では、淡路島に御陵のあった淳仁(じゅんにん)天皇とはどのような天皇であったかというと、あまり歴史で名前が出てこず、どちらかというと争った相手「孝謙(こうけん)天皇」の方がTVの歴史番組などで取り上げられ、有名です。
孝謙天皇の父親は、奈良の大仏を建立した聖武天皇(しょうむてんのう)です。
聖武天皇は息子に皇位を譲りたかったのですが、早くに死んでしまったため、娘に皇位を譲りました。
こうして即位したのが、孝謙(こうけん)天皇で、史上6番目の女帝でした。
女性天皇は一生独身を貫かねばならず、子をもうけてはいけなかったので、「次の天皇への中継ぎである」と見る勢力もおり、悩みの深い方であったそうです。
孝謙天皇(第46代天皇)は、イトコの藤原仲麻呂が推した淳仁(じゅんにん)天皇に皇位を継がせ(第47代天皇)、後に病に臥せりました。
そんな心身共にぐったりした時に出てきたのが、弓削道鏡(ゆげどうきょう)というお坊さん。
孝謙上皇(天皇の位を譲ったので、上皇)は父から「仏教を発展させて国を治めよ」と言われていたこともあり、自分を助けてくれた僧侶・道鏡を寵愛します。
仏教繫がりだけではなく、どうも二人は恋仲であったのではないか・・・とする説もあるようで、道鏡が仏教パワーにより病を取り払ったのか、恋をすることにより活力が戻ったのか知り様もありませんが、道鏡は女帝の大切な存在であったようです。
孝謙上皇は45歳で出家し、淳仁天皇と決別します。
さらに、都を他所へ移し、「小さな政治は淳仁がやれ、私が大きな政治をやる」との宣言をし、国政奪還をもくろみます。
というのも、淳仁天皇を推した藤原仲麻呂(孝謙上皇のイトコで、恵美押勝と改名)は、大きな権力を手にして、天皇にしかなかった貨幣鋳造権すら握り、官庁を唐風に改名するなどしたため、孝謙上皇が政治の主導権を取り戻そうとしたのです。
弓削道鏡の存在と、自分の地位に危機感を募らせた藤原仲麻呂(恵美押勝)は、上皇側に軍隊を派遣するものの負けてしまい、琵琶湖で首をはねられて死にました。
淳仁天皇は、藤原仲麻呂(恵美押勝)と仲が良かったことなどを原因に、淡路島に流され、若くして亡くなったそうです。(暗殺説がある)
菅浦が代々伝えてきたのは、「淳仁天皇は淡路島ではなく、菅浦に隠棲した。淡路(あわじ)というのは淡海(あわうみ・おうみ)の間違えであった」とするお話です。
淡路島の淳仁天皇淡路陵(青マーク)と、淳仁天皇が隠れ住んだとされる菅浦、須賀神社(赤い風船マーク)。
ずいぶん離れていますね。
真実はどうなのかわかりませんが、菅浦は標高400mの山々に包まれた集落で、船でしか行き来ができず、四つ足門を置き、村への出入りを厳しくチェックしていた・・・というから、確かに何やら理由のある人物がいた・・・とするのも、納得できるような気がします。
先ほどの話に戻りますが、孝謙上皇は第47代天皇の淳仁天皇を廃位にして、名前を称徳(しょうとく)天皇と改め第48代天皇として再び即位しました。
称徳天皇と道鏡による政権運営は、この後6年間にわたって続くことになるのですが、大宰府の主神(かんづかさ)である中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」と宇佐八幡宮の託宣があると報じる、宇佐八幡宮神託事件が起こります。
「天皇の血筋ではないものを天皇につかせよ」・・・、大事件ですね。
結局、道鏡には皇位は継がせないと宣言して、事件は決着しましたが、ここに書くと長くなるので、興味のある方はお調べください。
皇居見学の記事にも書きましたが、日本の皇室は今年(2018年 平成30年)で、皇紀2,678年と、世界最古・最長の歴史を誇る王室。いろんな事件があったようです。
明治神宮の宝物殿には、歴代天皇の肖像画(想像画?)があり、女帝や、幼児、同じ人物が二度皇位につく…など、複雑でした。
淳仁天皇の時代も、複雑な時代であったようです。
では、話を菅浦と淳仁天皇に戻しまして、須賀神社へお参り。
長い参道を歩きます。
途中、郷土史料館がありましたが閉館していました。
訪れる前日までに奥琵琶湖観光協会に事前連絡をする必要があるとのことです。
参道左に、「忠魂碑」。
菅浦に住まう人々は、淳仁天皇の氏子して暮らして来られたそうです。
まずは、手水舎でお清め。
ほら貝・・・でしょうか。
「参拝される方はスリッパをご利用ください」とありました。
土足禁止
ここより上は 心身を清めると共に神域清浄保持のため土足を禁止します
スリッパをはいて階段を上ります。
氏子は、素足で参拝するそうです。
16菊花紋紋と桐紋。
右が天満宮社。祭神は天満天神、八幡大神、大国大神、蛭子大神。
左が神明社。祭神は天照皇大神、豊受大神、白山大神、愛宕大神。
御本殿。
御本殿の裏に、石組。
「舟型御陵」と呼び、淳仁天皇の御陵だと伝わっているそうです。
御本殿に静かに手を合わせ、手水舎から西南へ伸びている細道を歩き、淳仁天皇菩提寺長福寺跡へ向かいました。
菅浦をテクテク歩いていると、私の祖母が暮らしているところと風景がかぶって、なんだか懐かしい気分になりました。
祖母は和歌山県の山奥に住んでいるのですが、ここと同じように石を積んだ塀がたくさんあり、道路幅が軽自動車一台分しかありません。
途中、民家にイド。
湧き水地点に石組のイドを設け、湧き水のイドは飲用に、桝状のイドは洗い物用として利用されたそうです。
須賀神社の本殿から10分ほど歩いて、長福寺跡に到着。
弥陀、観音の二尊堂の他に、蓮池、蹴鞠、射弓場もあったそうです。
400mの山々に囲まれた琵琶湖の北の里で蹴鞠とは、不思議ですね。
都で生活をしていた方が、ここで暮らしていた・・・のかもしれません。
ところで、菅浦は淳仁天皇が淡路島で死なずに、ここで隠れ住んだとの伝説があるところですが、壇ノ浦で沈み亡くなられた安徳(あんとく)天皇も、実は死んでおらず、高知県の山奥に逃れて暮らしたとする説があります。その地にも、安徳天皇が従臣たちと蹴鞠をして遊んだ所とされる所があるそうです。
私は、淳仁天皇も安徳天皇も、争いから逃れ、都から離れたところで、静かに穏やかに暮らしたのだ・・・と、思いたいです。
菅浦の道。
祖母の住んでいるところに、雰囲気がそっくり!
1時間ほどの散策で、誰にも会わないところも、そっくり。
昔は船でしか入れなかった菅浦。
淳仁天皇が暮らしたかもしれない菅浦。
須賀神社参道で「忠魂の碑」を見た時、ここにずっと住まわれている方々は、複雑な話を受け継ぎ、どんな思いで暮らしてこられたのだろう・・・と胸が苦しくなりました。
私自身もそうですが、父母も祖父母も生まれたところを離れたので「自分たちのルーツ」に対する興味もあまりなく、5代前の先祖がどこに住んでいたのか、どんな人だったのか知りません。
しかし、菅浦に住んでいる方は、長い長い歴史を代々継承しているのです。
ぜひ、郷土史料館でお話を伺いたかった・・・と思いました。
菅浦郷土史料館は13:00~16:00。大人200円、小学生以下100円で、入館日の前日(平日)までに奥びわ湖観光協会(0749-82-5909)に事前連絡が必要とのことです。
菅浦を散策される方は、民家の敷地に入らないことと、須賀神社参拝のマナーを守ること、住民の静かな生活を壊さないことに、気をつけられると良いと思います。
奥琵琶湖。
都を追われた淳仁天皇も、この景色を見ていたのだろうか・・・・。
だとしたら、どんな気持ちだったのだろう・・・。
次は宿泊先のホテル「つづらお」について書きます。このお宿の近くには桟橋があり、写真の小島・琵琶湖最大のパワースポット「竹生島(ちくぶしま)」へ渡る船を手配してくれます。
船を出してくれるのは、菅浦の漁師さんです。
ちなみに、つづらお崎と竹生島の間には、湖底遺跡があるようで、縄文時代以降の土器が多く引き上げられており、中でも7~8世紀ごろの土器が多く引き上げられているそうで、ちょうど淳仁天皇の時代ともかぶります。
遺物の中で最古のものは、縄文時代早期(七千年ほど前)の底の尖った砲弾の形をした尖底深鉢と呼ばれる土器だそうです。
どのような理由かはっきりわかりませんが、竹生島の信仰との関係で民衆が土器を意図的に沈めた可能性もあると立命大の教授がおっしゃっているようです。
奥琵琶湖・・・、神秘的ですね。
次は、琵琶湖一周旅行の初日に泊まった「奥びわ湖を望む宿つづらお」について書きます。
前回、菅浦(すがうら)散策の記事を書きましたので、今日は宿の「奥びわ湖を望む宿つづらお」を紹介したいと思います。 →→2018年5泊6日滋賀県琵琶湖一周旅行記の行程はこちら・・・レンタカーを利用して、5泊6日で27か所を巡りました。 宿[…]
(この旅行記は2018年です)
関連記事
→→2018年・春 滋賀県琵琶湖一周 5泊6日旅行の行程・・・この旅行の行程まとめ。
→→【余呉湖(よごこ)】 日本のウユニ塩湖? 賤ヶ岳の戦いがあったところ・・・前回の記事です。
→→【奈良公園③ 東大寺大仏殿(奈良の大仏)その2】 仏教で国をまとめようとした聖武天皇と、娘の孝謙天皇。親子で出家した天皇・・・淳仁天皇と争った孝謙天皇と、父親の聖武天皇について書きました。聖武天皇は、出家した天皇の第一号で、娘も出家しました。
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交通アクセス
JR湖西線「永原駅」から、菅浦線 菅浦行のバスに15~20分乗車。
車で行く場合、付近に「駐車禁止」エリアがあるのでご注意ください。私達は宿泊先の「つづらお」駐車場に停めて散策しました。
料金
菅浦郷土史料館は13:00~16:00。大人200円、小学生以下100円。
入館日の前日(平日)までに奥びわ湖観光協会(0749-82-5909)に事前連絡が必要とのことです。
近くの宿泊施設
奥びわ湖を望む宿つづらお。JR湖西線 永原駅より無料送迎してくれます。