【南朝黒木御所跡と供養塔】 天河大弁財天社のすぐ後ろ。南北朝時代を簡単に説明

前回の続きで、奈良県天川村の紹介です。

数々のアーティストたちの尊崇を集める天河大弁財天社(天河神社)へ参拝し、そのすぐ後ろにある南朝黒木御所跡(なんちょう くろきごしょあと)へ行きました。

旅行記

【天河大弁財天社】の主祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)ですが、他に、熊野坐大神、吉野坐大神、南朝四代天皇の御霊(後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇)、神代天之御中主神より百柱の神が配祀されています。

 

御祭神を見てわかるように、天河神社は南朝と関わりの深い神社です。

 

ここで、「南朝って何?」と思われる方がいるかもしれませんので、簡単に説明します。(学校で習いますが、忘れている方も多いと思うので)

 

 

今年(2018年。平成30年)は、皇紀2,678年・・・つまり、神武天皇が橿原で天皇に即位してから、その子孫がずーーーーっと皇位に就いて2,678年です。

こんなに長い王家の歴史を持つのは日本のみで、今上天皇(平成天皇)で、125代目天皇です。

→→【皇居参観の見どころ】の記事はこちら・・・皇居は無料でガイドしてもらえます。

 

しかし、その長い年月の間は、ずっと穏やかだったわけではなく、天皇家の身内同士での争いや、その取り巻きの争いなど波乱に満ちており、明治天皇の玄孫である竹田 恒泰さん著書の「怨霊になった天皇」という本によると、天皇の自殺が二例(弘文天皇、安徳天皇)、暗殺が二例(安康天皇、崇峻天皇)、事故死が一例(四条天皇)、特殊な例として神の怒りに触れて殺された例や、神の呪いによって殺された例(仲哀天皇、斉明天皇)もあり、島流し、幽閉、追放などの憂き目にあった天皇は多数います。

 

以前、【奥琵琶湖 菅浦の湖岸集落散策】の記事で淳仁天皇(じゅんにんてんのう)、【「怨霊になった天皇」を読んだ】の記事で崇徳天皇(すとくてんのう)の皇位争いについて書きました。

それらもかなり荒れていたのですが、特に大荒れだったのが「南北朝時代」と言われるもの。

 

通常、天皇は一人ですが、南北朝時代は、京都の北朝(ほくちょう)と、大和(奈良)の南朝(なんちょう)の、それぞれに天皇が即位する(つまり二人の天皇がいた)という、異常事態。

 


 

 

そのきっかけとなったのが、天河神社の祭神の一人でもある「後醍醐天皇(ごだいごてんのう)」。

後醍醐天皇が活躍した鎌倉時代、天皇家は「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂し、揉めていました。

このころ、朝廷以上に力を持っていたのが武士政権である鎌倉幕府。源頼朝から始まったこの幕府は、良い働きをした武士に褒美として土地を与える(御恩と奉公)ことで統率し、150年間も力を有していました。

幕府の権力は大きく、天皇は、幕府の承認なしでは皇位継承者を決めることができませんでした。

 

そこで後醍醐天皇は、天皇中心の政権を作るため(自分の子供を次の天皇にしたかったので、口出ししてくる幕府が邪魔だったこともある)、楠木正成(くすのきまさしげ)、新田義貞(にったよしさだ)、足利高氏(あしかがたかうじ)などの鎌倉幕府に反感を持つ武士を味方につけて、鎌倉幕府を討ちました。(一度失敗して、後醍醐天皇は隠岐の島に流されたが、復活してからの倒幕だった。パワフルな天皇ですね)

 

余談ですが、源頼朝から始まった鎌倉幕府ですが、後に頼朝の子らは次々と殺され、頼朝直系の血脈は途絶え、頼朝の妻・北条政子の実家である北条家が仕切り、この時の幕府のトップは北条高時でした。

→→鶴岡八幡宮の記事はこちら・・・鎌倉幕府の中心地。源平の争いにゾッとする。頼朝と政子、義経と静御前の話を書きました。

 

 

鎌倉幕府倒幕で武勲を立てた足利高氏に、後醍醐天皇は諱・尊治(たかはる)から、「尊」の字を与え、高氏は尊氏に改めました。

足利尊氏(あしかが たかうじ)・・・、後に足利幕府(室町幕府ともいう)の初代将軍になる人物です。

 

さて、北条を討ち、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、公家と武家を統一した政治を目指します。

それが、「建武の新政(けんむのしんせい)」。

天皇中心の政治を作ろうとした後醍醐天皇ですが、後に尊氏が幕府(武家政権)を作ったということから見ても、建武の新政が上手くいかなかったことがおわかりになるでしょう。

 

その大きな原因は、後醍醐天皇が、民から土地の所有権を取り上げ、新たに土地所有権や訴訟の申請などに関して、天皇の裁断である「綸旨」を必要としたことでした。

これで武士らが混乱。

また、後醍醐天皇は、楠木正成らを武家でありながら初めて朝廷の要職につけるなどしましたが「天皇中心の政治を取り戻す」ことが目的であったため、武家を大事にしませんでした。

そこで、足利尊氏のもとに不満だらけの武士たちが集まり、尊氏は天皇の許しなく武士たちに土地をあたえ、さらに武家政権樹立の構えを見せたために、後醍醐天皇は激怒。

両者は、対立することになります。

 

はじめは後醍醐天皇側が有利で、尊氏は九州の大宰府にまで逃げましたが、「後醍醐天皇に没収された土地の返却を約束する」と武士を集め、さらに後醍醐天皇と対立する光厳上皇を味方につけ、大軍勢で京都に攻め入りました。

 

この京都の湊川の戦に敗れた後醍醐天皇側は、【比叡山】に逃げました。

京都に入った足利尊氏は、光厳上皇の弟である光明天皇を即位させ、北朝(ほくちょう)を成立。

後醍醐天皇は、後に比叡山を降りて、足利尊氏と和睦し、光明天皇に三種の神器を渡しました。(なんと、後に後醍醐天皇は、渡した神器は偽物だよ、と混乱させる事を言う!)

 

 

これで、天皇は後醍醐天皇から光明天皇へと引き継がれたのですが、後醍醐帝は諦められない!

幽閉されていた京都の公家の屋敷から、女装して逃走。
大和(奈良)の吉野に、南朝(なんちょう)を開きました。

 

南朝の初代天皇は、もちろん自分、後醍醐天皇です。(天皇の象徴である三種の神器はありませんが、後に取り返す)

このようにして、朝廷が、京都の「北朝」と、大和(奈良)の吉野にある「南朝」の二つに分かれ、同時に二人の天皇がいるという異常事態が、60年ほども続いたのです。

 

 


 

 

南朝の天皇は、後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇の4人でした。

初めは吉野に開かれた南朝でしたが、南朝の興隆・衰退に従って、大和・河内・摂津・山城などに行宮を移転。

【天河大弁財天社】の後ろにある南朝黒木御所跡は、後醍醐天皇の第3王子である大塔宮護良親王が十津川に逃げ出した時、豪族の竹原八郎が仮宮殿を建ててかくまった御所の跡です。

 

 

護良親王(もりよししんのう)。

後醍醐天皇の画策で、天台座主(比叡山のトップ)に二度もなった方です。

→→【比叡山延暦寺】の記事はこちらから・・・最澄が開いた、日本天台宗の総本山。仏教の総合大学として栄え、多くの名僧を輩出したが、後に織田信長の焼き討ちにあった。

 

父の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼす際は、還俗し(僧侶をやめた)、戦いに参戦しました。

後醍醐天皇が「建武の新政」を打ち立てた際、征夷大将軍に任命されたのは、足利尊氏ではなく、この護良親王(もりよししんのう)。

当然、護良親王と足利尊氏の仲は、険悪です。

護良親王は尊氏暗殺を企てますが、失敗。鎌倉に長期幽閉された末に殺害されました。(生存説もある)

 

 

ここに、後醍醐天皇の皇子、護良親王がかくまわれていたのかぁ・・・。

 

 

南朝黒木御所跡の隅に、「南朝北朝和解供養塔」がありました。

 

 

日の本は国土的にも民族的にも世界の中枢であり、日本の皇統はその中軸にして世界は皇統を独楽の辛棒(しんぼう)さながら轉回(転回)しています。

その皇統に霊的不和がある時は、世界は平和を保持し能わず、依って皇統最後の確執たる南朝北朝皇統の霊的和解の御供養を敢行し、世界の平和と人類の幸せを祈念する目的を以ってこの宝筺印塔を建立した次第であります。

建立は、昭和55年5月1日。

 

建立委員長の賀陽邦壽(かや くになが)さんは、元皇族で、陸軍軍人だった方です。

賀陽邦壽さんについて。ウィキペディア・・・賀陽邦壽さんの祖父は、賀陽宮邦憲王(かやのみや くにのりおう)で、今上天皇(平成天皇)の大叔父にあたり、伊勢神宮の祭主だった方。

 


 

さて、後醍醐天皇から始まった南北朝時代がその後、どうなったのか気になるでしょうから、簡単に続けます。

二つの朝廷をそのままにしておくわけにはいきませんから、南北朝の和解は幾度か図られました。

正平一統では、南朝の後醍醐天皇が「以前、北朝に渡した偽物の三種の神器を、南朝側に返すように」と求め、北朝側から三種の神器を取り返し(偽物だよと言いながらも、やっぱり本物だった?)、足利尊氏と北朝は、政権を南朝側に無条件返還しました。(尊氏は、「どんな時も天皇に対する御恩は忘れません」と、後醍醐天皇を尊敬していた。後醍醐天皇と戦うのが嫌で、寺に引きこもってしまったこともある)

 

しかし、正平一統はたったの四カ月で失敗に終わり、南北朝は別れたまま。

 

 

日本はこれまでに戦が幾度もありましたが、いつでも「天皇制」は保持されてきました

「天皇家を潰す」という勢力は無かったのです。

しかし、南北朝は「天皇家が二つあり、片や幕府がついた北朝、片や三種の神器を持ち正当性を主張する南朝」なので、いろんな勢力が絡んできて、めっちゃくちゃグチャグチャします。

 

この後60年ほど、幕府方の北朝は三種の神器がないまま天皇をたて、南朝は三種の神器をもち正当性を主張しながらも衰退。

 

 

しかし、いつかは終わりが来るもの。

両者の和解は、足利尊氏の孫である、足利義満(あしかがよしみつ)により行われました。

足利尊氏の死後100日目に生まれた、孫の義満。

足利幕府最強の将軍と言われ、京都に金閣寺を建てたことで有名ですね。

→→金閣寺の記事はこちら・・・世界遺産。

 

 

義満の時代には、京都の北朝は幕府と大きく結びついて栄えていましたが、南朝はかなり衰退していまいた。

しかし、油断はできなかった!

というのも、義満の祖父である足利尊氏が、後醍醐天皇と対立したとき、光厳上皇を味方につけて武士を集めたように、いつ足利幕府と対立する勢力が南朝を味方につけて歯向かってくるかわかりません。

 

 

そこで、義満は、南朝方に大きく譲る形で、統一案を出しました。

・南朝の後亀山天皇は、三種の神器を北朝の後小松天皇に授けてください(南朝が正当だと認めた上で、北朝に譲るよう申し出た)
・今後は、北朝と南朝が交互に即位すること
・諸国にある国の領地は、南朝の領地とする
・皇室の領地は、全て北朝が支配する

四つの条件は、南朝にとって悪い条件ではなかったし、これ以上揉めるわけにはいかないと受け入れ、南朝の後亀山天皇は京都に戻り、60年以上続いた対立は終わりました。

 

 

・・・とは言うもの、この後、南朝と北朝が完全に仲直りしたのかというと、そうでもないようで北朝が長いこと栄えることになります。

 

以前、【「怨霊になった天皇」を読んだ】 人を恨んではいけない。「和の文化」は、世界に誇れる日本の心の記事で書きましたが、明治天皇の玄孫である竹田さんが、「昭和期から現代にいたるまで、北朝方の皇室に女子が生まれるように、南朝方が呪いをかけていた」と、南朝関係者からいわれたと述べられていました。そうであるならば、現代も、北朝と南朝は仲が悪いのかもしれません。

 

 

ちなみに、【皇居外苑】には、後醍醐天皇(南朝初代天皇)に忠実に使えた、楠木正成(くすのきまさしげ)像があります。

 

 

現在の皇室は北朝と言われていますが・・・。

はて、何か、複雑な事情があるのでしょうか。

 

 

 

南朝黒木御所跡には、「その皇統に霊的不和がある時は、世界は平和を保持し能わず、依って皇統最後の確執たる南朝北朝皇統の霊的和解の御供養を敢行し、世界の平和と人類の幸せを祈念する目的を以ってこの宝筺印塔を建立した」・・・と刻まれていましたが、まだ「皇統最後の確執」は和解していないのでしょうか・・・?

 

 

 

明治天皇の玄孫の竹田さんは著書で、「このわだかまり(南北朝問題)が完全に解消した時に、日本は国際社会で本当の力を発揮することができる」と書かれています。

 

 

 

なんだか複雑で、闇が深そうですが、皆様は、どのように思われたでしょうか。

 

 

さて、次は、ここから車で20分ほど離れた洞川温泉郷の「五代松鍾乳洞(ごよまつしょうにゅうどう)」の探検と、名水「ごろごろ水」を取り上げます。

 

 

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→→【「怨霊になった天皇」を読んだ】 人を恨んではいけない。「和の文化」は、世界に誇れる日本の心・・・日本最大の怨霊は、崇徳天皇(すとくてんのう)といわれる。明治天皇の玄孫の竹田さんが書いた本です。

交通アクセス

天河大弁財天社と同じです。

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