【豊国神社】 長浜を栄えさせた豊臣秀吉が御祭神。浅井三姉妹と、秀吉の子供

前回の続きで、滋賀県の琵琶湖一周旅を取り上げます。

海洋堂ミュージアムショップの後、長浜城跡に向かったのですが、近くに「豊国神社」があったのでお参りをしていきました。

→→2018年5泊6日滋賀県琵琶湖一周旅行記の行程はこちら・・・レンタカーを利用して、5泊6日で27か所を巡りました。

参拝記

黒壁スクエアの有料駐車場近くに「豊国大神」の看板が出ています。


「太閤さんに会える神社 豊国神社」。

太閤(たいこう)さんとは、豊臣秀吉のことです。

 

御祭神は、豊臣秀吉公、加藤清正公、木村長門守公、恵比寿宮。

 

 

長浜市内で「秀吉公ゆかりの六社寺巡り」もあるようでした。

 

 

境内入って左側にあるのが、秀吉の家臣である「加藤清正(かとうきよまさ)」の銅像。神社の説明によると、「神社鎮護の神像」とのことです。

皇居参観の見どころの記事でも書きましたが、加藤清正は熊本藩初代藩主で、「築城の名手」とも言われ、熊本城、名古屋城、江戸城などの建築に関わりました。(熊本城、名古屋城はまた後日取り上げます)

 

明治神宮のパワースポット「清正井」でも有名な武将ですね。

→→明治神宮、清正井、宝物殿の記事はこちら・・・加藤清正が自ら掘ったと言われている清正井(きよまさのいど)。

 

 

説明。大東亜戦争末期に銅像が供出され、台座のみとなっていたようです。

 

 

境内には、出世稲荷神社と天満宮もありました。

 

 

稲荷神社の隣に、本殿。江戸時代中期の建物だそうです。

 

 

豊国神社の御由緒。

天正元年(1573年)、信長の進攻により小谷城の浅井家が滅亡し、湖北が秀吉公の知行地になると、翌年長浜城と城下町の造営に着手し、それ以降楽市楽座の制度と地租税三百石免除の恩典で、江戸時代を通じて長浜の商家は大いに繁栄しました。

慶長三年(1598)、秀吉公が逝去されると、町民は太閤さんの恩徳を慕って豊国神社を建立しましたが、江戸時代になり太閤さんを神格化することが禁じられて取り壊され、秀吉公の御神像は町役人の家々で守り継がれた時代が続きましたが、寛政五年(1793)「えびす宮」の建築許可を受け、奥に御神像を安置して密かにお祀りしていました。

現在の神社名は、明治維新後に晴れて復帰した名称です。

 

 

小谷城の浅井家・・・、有名ですね。

長浜駅前で停まっていたバスです。三人の女の子が描かれていますね。

小谷城の、浅井(あざい)三姉妹です。

 

 

浅井三姉妹の母は、織田信長の妹(従妹説もあり)の「お市の方」です。三姉妹の父は、近江の小谷城主である浅井長政。

同盟関係を結ぶための、政略結婚でした。

 

 

 

小谷城で三姉妹は生まれ育ちましたが、後に叔父・信長と、家来の秀吉らが小谷城を攻めました。

父親の浅井長政は、お市の方と三姉妹を信長に引き渡し、小谷城で自害。(→小谷城の戦いはウィキペディアで詳細をご覧ください浅井長政らの首は京でさらし首にされ、髑髏に漆と金粉を塗って宴の席に出された・・・というから、私にはものすごく恐ろしく感じるのですが、敵将への敬意の念があったことを表したものなのだそうです)

 

 

秀吉は先方を切って攻めた手柄で、小谷城をもらい受けます。

しかし小谷城の立地が気に入らなかったため、琵琶湖沿いに長浜城を築きました。(秀吉が初めて獲得したのが小谷城で、初めて築城したのが長浜城)

 

小谷城跡と長浜城跡は、車で43分離れています。余呉湖に行く途中に「→小谷城跡」の看板が見えたのですが、大河ドラマで浅井三姉妹が母と泣く泣く逃げるシーンを見たせいか、「すっごい気の毒・・・」の気持ちが強く、行く気にはなりませんでした。

歴史が好きな方は、セットでまわられると良いかと思います。

 

 

 

 

さて、浅井三姉妹とお市の方のその後はと言いますと、兄の信包と信長の保護を受けて織田家で9年ほど過ごし、明智光秀による「本能寺の変」で信長が死んだ後は、光秀を討った秀吉が実力者となり(清須会議)、お市の方は織田家の筆頭家老である柴田勝家(しばたかついえ)と結婚。三姉妹も、北ノ庄城(福井市)に住みますが、秀吉に攻められ、母・お市の方と、養父・勝家は共に死んでしまったのでした。

 

 

三姉妹は秀吉に引き取られ、それぞれ激動の道を歩むことになります。

では、大河ドラマでも有名な浅井三姉妹について簡単に説明。

  • 長女・・・茶々(ちゃちゃ)。後の淀殿。秀吉の側室となり男児二人を産む。秀吉亡き後は、豊臣家を仕切り、家康と対立。大阪冬の陣、夏の陣と戦い、息子・秀頼と共に自害した。
  • 次女・・・初(はつ)。イトコであり幼馴染の京極高次の正室として京極家に入り、夫亡き後は出家して常高院を名乗る。姉の淀殿と対立した徳川家(妹が嫁いだ)の仲介に奔走。生涯、子供はできなかった。
  • 三女・・・江(ごう)。政略結婚で佐治一成→豊臣秀勝→徳川秀忠と、三回の結婚を経験する。子供を10人(9人?)生んだ。徳川幕府三代将軍家光の母です。(家光の母は、春日局だとする説もある)

 

 

三者三様の生き方をした浅井三姉妹。

私はやっぱり、長女の茶々(淀殿)がスゴイナァと思いますねぇ・・・。

小谷城の戦いで先方を切って父・浅井長政を死に追いやり、さらに母親と養父・柴田勝家も死に追いやった秀吉の側室となり、男児二人を生む・・・。

 

いくら「時は戦国、乱世の時代」といったって、こんなことできます?

 

といっても、秀吉は子宝に恵まれない体だった説もあり(正室との間に子が無く、十数人いた側室との間でも、子供を産んだのは淀殿と他の二人?だけ)、果たして淀殿が生んだ子供は、本当に秀吉の子だったのだろうかと・・・(^_^;)

 

このことは、高野山、金剛峰寺(こんごうぶじ)の記事にちょっとだけ書いたので、興味のある方はご覧ください。

 

秀吉の子供は、4人いたとも言われています。(DNA検査の無い時代なので、実子かどうかは不明)

  1. 石松丸・・・近江長浜城主時代に、側室との間にもうけた子。この子の誕生を祝って、長浜の曳山祭りが生まれたが、6歳で亡くなった。
  2. 娘・・・資料不足で詳細不明。
  3. 鶴松・・・淀殿が秀吉との間にもうけた第一子。3歳で亡くなる。
  4. 秀頼・・・淀殿が秀吉との間にもうけた第二子。大阪夏の陣で、23歳の若さで亡くなる。

有名なのは、やっぱり秀頼(ひでより)ではないでしょうか。

秀頼は大阪夏の陣で、大阪城で死んだと言われていますが、実は「真田の抜け穴」で、秀頼、真田信繁(幸村)とその息子の大助の3人で逃げた説もあります。

 

 

・・・どうなんでしょうね~~???

 

秀吉の子供、生き延びたのでしょうか。

 

と言っても、その秀頼の父は、秀吉ではなく「大野治長」という説もあるようですが・・・。

 

このことは、九度山・真田ミュージアム。真田親子が14年間蟄居した。家康と不仲な理由。に書いたので、ご覧ください。

 

浅井三姉妹の長女・淀殿が生んだ秀吉の子供について簡単に書きましたが、どのように思われたでしょうか?

父、母、養父を死に追い込んだ男に嫁ぎ、その子供を産んだとなると、よっぽど秀吉のことが好きだったのだろうか・・・?と美談のようにも聞こえますが、「実は違う男の子供だった」とすると、孵化させらずに仕方なく托卵するカッコウもビックリな、したたかな女性像が見えてくるではありませんか・・・。

 

 

(後日追記・・・お市の方は信長の従妹であり、妹ではなかったとする説があるそうです。浅井家に代々伝わる書物には、長女である茶々の生誕に関する記載がなく、浅井長政とお市の方の結婚前に、すでに茶々が生まれていたとする「連れ子説」があり、その説では茶々の父親は信長である、とされているそうです。そうすると、秀吉は信長の娘の茶々を側室に迎えて近くに置き、初と江を政略結婚に使ったということになります。子宝に恵まれない秀吉は、茶々の産んだ子供が自分の子供ではないかもしれない・・・と、うすうす気付いていたかもしれませんが、自分が仕えた主人である、信長直系の血筋を守りたかったのかもしれませんし、利用しようと考えていたのかもしれません)

 

 

話がそれてきたので、豊国神社に戻ります。

徳川時代に、秀吉を神様として祀ることができなかったので、えびす様を前に持ってきて、奥で秀吉を祀っていた、豊国神社。

豊国神社は、長浜の他、京都、大阪にもあります。

 

手水舎が一段下になった作りで、珍しいなぁと思いました。

 

 

こちらは、南側の鳥居。

 

 

 

南側の鳥居を出て、長浜駅へ進むと「長浜城家臣団屋敷跡」の碑がありました。

 

 

隣には、巨大な石碑。

石碑の隣には、「長浜の起源歌碑」の説明書き。

浅井長政の城である小谷城を落とし、秀吉は小谷城を信長からもらったものの、雪が積もるし寒くて住みにくかったので、未申の方向にある「今浜」に目をつけた。今浜は琵琶湖に沿っていて雪も浅く、信長の住む安土城にも船で行きやすかったので、今浜を「長浜」と改名し、築城した。

この石碑の石は、金ヶ崎落城のおり、秀吉が身を隠した石で、「豊公いのち石」という伝説がある石を搬入したものだ、・・・とあります。

 

 

もう一度、長浜駅にあった、秀吉と長浜城のタイル画。

長浜の発展は、秀吉のおかげ。

 

 

長浜駅前には秀吉の像があります。

タイトル「出会い」。

 

 

誰と出会ったのかというと、石田三成(いしだみつなり)なんですね。

石田三成は長浜市で生まれたそうです。

鷹狩で喉の乾いた秀吉に、まずは喉を潤すために温いお茶をなみなみと注ぎ、二杯目はちょっと熱いお茶を茶碗に半分、三杯目は小さな茶碗に熱いお茶を入れ、この気の配り方に秀吉は感心し、召し抱えたのだそうです。

三成は秀吉亡き後、徳川家康打倒を決起しましたが、関ヶ原の戦いで破れ、京都の六条河原で斬首されました。

 

 

浅井長政、浅井三姉妹、お市の方、織田信長、豊臣秀吉、石田三成・・・と、戦国時代好きにとって、琵琶湖周辺はたまらないスポットなのではないでしょうか。

同じく琵琶湖沿いに、織田信長の居城だった「安土城跡」があります。

 

 

さて、次は、長浜城跡を取り上げます。

次の記事はこちら

さて、前回からの続きで、滋賀県の琵琶湖一周旅行を取り上げます。 黒壁スクエア→海洋堂ミュージアムショップ→豊国神社と回り、次は長浜城です。 →→2018年5泊6日滋賀県琵琶湖一周旅行記の行程はこちら・・・レンタカーを利用して、5泊6[…]

 

(この旅行記は2018年です)

 

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交通アクセス

長浜駅から北東へ徒歩5分ほどです。

車で行く場合、付近の有料駐車場を利用します。
黒壁スクエアのすぐ近くにも駐車場がありますが、長浜城近くの豊公園駐車場は普通車3時間以内無料で利用できます。

近くの宿泊施設

北ビワコホテル グラツィエ。長浜駅出てすぐ。

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