【余呉湖(よごこ)】 日本のウユニ塩湖? 賤ヶ岳の戦いがあった所。余呉湖の天女は菅原道真の母?

前回の続きで、滋賀県の琵琶湖一周旅行を取り上げます。

旅の始まりは長浜観光からスタートで、黒壁スクエア周辺と、長浜城を見た後、余呉湖(よごこ)へ向かいました。

→→2018年5泊6日滋賀県琵琶湖一周旅行記の行程はこちら・・・レンタカーを利用して、5泊6日で27か所を巡りました。

旅行記

余呉湖(よごこ)は、琵琶湖の右上にある小さな湖です。

前回の長浜城からは車で40分ほどで、途中、浅井長政、お市の方、浅井三姉妹が暮らした小谷城跡があります

 

 

余呉湖の見どころは、美しい湖と、天女の羽衣柳。

余呉駅から徒歩数分で行けるので、比較的観光しやすいスポットです。

車で行く場合、余呉湖観光館の前、余呉湖ビジターセンター(余呉湖漁業協同組合)、余呉湖駅前に無料で停めることができます。

 

 

余呉湖は、「日本のウユニ塩湖」と題した奇麗な写真が「しがトコ」に掲載されているので、「世界よ、これが日本のウユニだ」美しすぎる余呉湖の絶景で、ぜひご覧ください。

 

 

めっちゃ奇麗です!!
ただ、ウユニ塩湖のような美しい写真がとれたのは冬季で、私たちが訪れたのは3月下旬だったので、あんな景色は見れないだろうとはわかっていました。

 

けれども、余呉湖、一度見てみたかった!

 

 

余呉湖観光館。

訪れたのは土曜日の夕方だったのですが、お客さんはほとんどいませんでした。

 

 

余呉湖から流れる川には、カワウの姿がありました。

もぐって魚を捕る鳥で、一分くらい出てきません!

水中を20mくらい移動するようで、「次はどこに上がるのかな」と探すのが楽しかったです。

 

 

さてさて、余呉湖ですが、

ウユニ塩湖のようには見えませんでしたが、別名の「鏡池」はぴったりでした。

 

 

晴天時に訪れることができて良かったです。

 

 

余呉湖は、最大水深13.5m、平均水深7.4mで、琵琶湖と同じ断層湖であることから、もともと琵琶湖とくっついていたのでは・・・と推測されているそうです。

 

ウィキペディアによると、形成は約100〜200万年前と見られ、古い琵琶湖の一部だったものが約3万年前に分かれたのだそうです。

 

波が穏やかな湖ですが、水質は琵琶湖に比べると濁っていました。

 

 

近くにはこのような看板が。

 

 

近寄ってみると、

んー!? なんだかコワイ絵が!

写真右上に「柴田勝家」の旗が見えるでしょうか。織田家の筆頭家臣で、「鬼の柴田」といわれた武将です。

信長が明智光秀に討たれた後、妹(従妹?)のお市の方と結婚し、浅井三姉妹(浅井長政とお市の子ども。長女は茶々で秀吉の側室に。次女は初で、京極高次の妻に。三女の江は、後に徳川三代将軍となる家光の母となる)も引き取った、福井の北ノ庄城の主です。

 

 

柴田勝家の敵は、豊臣秀吉です。

 

 

柴田勝家も秀吉も、織田信長の家臣でしたが(仕えた年月が長いのは柴田勝家の方)、信長が明智光秀に討たれた(本能寺の変)後、清須会議にて領地の分配と、信長の跡継ぎを誰にするか話し合いました。

 

柴田勝家は、信長の三男を後継者に推しましたが、秀吉は信長の長男の息子(信長の孫)の三法師を推しました。

 

 

ちょっと簡単に信長の子供について説明しますが、信長が若かりしころ、斎藤道三の娘の濃姫と政略結婚をしますが、二人の間に子供はできませんでした。

信長は生駒屋敷の吉乃と親しくなり、吉乃は信長の子供を産みます。

長男・・・信忠(のぶただ)

次男・・・信雄(のぶかつ)

信忠は本能寺の変で信長が死んだ後、明智軍に攻撃され自刃(首が見つからないので生死不明)。

秀吉が推したのは、この信忠の幼い子供・三法師(信長の孫)です。

 

 

一方、柴田勝家が推したのは、信長の三男である信孝(のぶたか)で、吉乃とは違う女性の子供でした。

 

 

信長の跡取りは、孫・三法師か、三男・信孝か・・・。

 

これらが話し合われた清須会議には、丹生長秀という織田家の宿老もいて、丹生は秀吉に同調。

実は丹生長秀は、秀吉から領地をもらう約束をしていたのでした。

 

 

さすが、「人たらし」といわれた秀吉。根回しがうまいですね。

 

 

信長の跡取りはまだ幼い孫の三法師となり、秀吉はそのバックにつき、信長亡き後の主導権を獲得しました。

 

 

古くからの織田家の家臣・勝家と、農民(足軽?)からの成り上がり・秀吉は、上手くやれるはずもなく、後に余呉湖横の賤ケ岳(しずがたけ)にて、にらみ合います。

 

 

柴田勝家が、余呉湖の北に陣をとり、約3万の軍勢。

秀吉は、余呉湖の南に陣をとり、約5万の軍勢。

 

双方、柵を作るなどしてにらみ合うこと約一月、秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び挙兵したことで、秀吉は美濃へ進軍。

 

余呉湖南の秀吉軍の数が減ったのを見て、柴田勝家は佐久間盛政からの進言もあり、反時計回りに余呉湖南へと進軍し撃破。

 

しかし、丹生長秀が応援に駆け付け、形勢逆転。

 

さらにそこへ、美濃へ進軍した秀吉が、たった5時間で戦場へ帰ってきた!(美濃大返し)

 

52kmの丘陵地帯を、道沿いにたいまつを付けさせ、その明かりでひたすら走らせたのだそうで、佐久間は「まさか秀吉が、いかに天魔といえども、まだ戻って来るまい」と非常に驚いたのだそうです。

 

秀吉は、明智光秀を討つときも長距離を短時間で移動しているので、情報力・機動力が神がかっていたのでしょうね。

 

 

秀吉が陣に戻ってきただけでも柴田勝家には不利なのに、味方である前田利家がいきなり裏切り戦線離脱。

陣形が崩れ、勝家らは退却することになりました。

 

この時の戦いで、あたりは死体でいっぱいになり、余呉湖は血の色に染まったのだそうです。

 

 

 

そんな激しい戦闘があったとは、この時は知らなかったので、「きれいだね~~~」と景色を楽しんでいました。

 

 

せっかくですので、柴田勝家のその後について続けますが、居城である北ノ庄城に戻り、籠城して秀吉軍を迎え撃ちますが、勝てる見込みのない戦だったので、お市の娘・浅井三姉妹は城から出され、秀吉のもとへ。

 

城に残ったお市の方と柴田勝家は、ともに北ノ庄城で自害した・・・とされていますが、実はお市の方は死なずに、近くの足羽川へ出て船に乗り、伊勢まで逃げたとする話があるようです。

 

柴田勝家の居城・北ノ庄城は9層の天守閣からなる大変立派な城であったそうですが、柴田勝家が自害する際、爆薬で破壊したのだそうです。

爆発してしまえば、がれきの山で、生死不明にできますからね。

 

 

それにしても、信長は遺体が無いし、その息子も遺体がないし、秀吉に討たれた明智光秀も本人の首を確認できなかった(腐ってたので本人かわからなかった)というから、なんだか怪しいですねぇ・・・。

→→【安土城跡】の記事はこちら・・・織田信長が天下統一を夢見た城。信長の死には謎がある。

 

 

 

戦乱の世で赤く染まった湖も、平和な世では「鏡池」。

穏やかな湖面を楽しみ、天女の羽衣柳を目指して歩きました。

 

 

 

付近はのどかな田園地帯。

故郷の和歌山になんとなく風景が似ているけれども、明らかに違うのが雪化粧した山が見えることと、空気がヒンヤリしていること。

滋賀の湖北地域は日本海側の空気なんだなーと、太平洋側出身の私には新鮮でした。

 

 

つくしと、おおいぬのふぐり。春ですねぇ。

 

 

天女の羽衣柳は、写真左の切株です。

 

 

 

天女の羽衣伝説というと、松が有名ですが、ここでは柳なんですね。

なんといっても有名なのは、三保の松原でしょう。

 

ちなみに、余呉湖の天女は、学問の神様として有名な菅原道真(すがわらのみちざね)の母親であるとする説もあるようです。

→→【北野天満宮】の記事はこちら・・・菅原道真を祀る神社の総本宮。道真公は、日本三大怨霊の一人。

 

 

歌碑。

 

 

最後に、余呉湖の役割。

琵琶湖よりも47m高いところにあり、洪水調節と利水に利用しているようです。

 

 

余呉湖周辺の観光マップ。

 

 

旅行中は余呉湖が血に染まった戦いを知らなかったので、単純に「奇麗だねー」と楽しみ、奥琵琶湖の隠れ里・菅浦(すがうら)へ向かいました。

 

菅浦の湖岸集落は、平成26年10月6日、国の重要文化的景観に選定されたところで、淳仁(じゅんにん)天皇が淡路島で殺されずに逃げてきた・・・という伝説のある地域です。

 

 

(この旅行記は2018年です)

 

関連記事

→→2018年・春  滋賀県琵琶湖一周 5泊6日旅行の行程・・・この旅行の行程まとめ。

→→【長浜城】 羽柴(豊臣)秀吉が初めて築城したお城。大出世した秀吉の出身が謎・・・前回の記事。

→→【豊国神社】 長浜を栄えさせた豊臣秀吉が御祭神。浅井三姉妹と、秀吉の子供・・・浅井三姉妹と淀殿についても書きました。

交通アクセス

余呉湖駅でてすぐ。
車で行く場合、余呉湖観光館の前、余呉湖ビジターセンター(余呉湖漁業協同組合)、余呉湖駅前に無料で停めることができます。

近くの宿泊施設

余呉ふじとぴあ。余呉湖を見下ろせる宿泊施設です。

 

 

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