【小町通りと、鶴岡八幡宮】 源平の争いにゾッとする。頼朝と政子、義経と静御前

前回からの続きで、神奈川県鎌倉市の江ノ電1日フリー切符「のりおりくん」でまわる鎌倉観光紹介です。

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スラムダンク踏切と、七里ガ浜散歩

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鎌倉大仏殿 高徳院
佐助稲荷神社と、大仏ハイキングコース
銭洗弁財天宇賀福神社
化粧坂切通し、源氏山公園
とまわり、最後は鎌倉駅エリア。

 

今日取り上げるのは、鎌倉駅から鶴岡八幡宮の間にある小町通りと、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)です。

参拝記

鎌倉駅の東口を出ると赤い鳥居がすぐに目に付きます。

 

 

駅前の赤い鳥居の奥が「小町通り」で、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)前へ繋がっています。

 

 

小町通りにはたくさんの飲食店、土産物店、雑貨店があります。

 

 

どんぐり共和国鎌倉店でお買い物。

 

 

かわいいハンドタオルを買いました♪(どんぐり共和国の店舗一覧はこちらでご覧ください)

 

 

2012年に訪れた時、小町通りで食べた紫芋と抹茶味のダブルソフト。「あじさいソフト」と名前がつけられていました。ソフトクリームの後は、手焼きせんべい、紫芋コロッケを食べました。

 

 

2022年に訪れた時は、鎌倉駅の鎌倉茶々で駅前店限定「ほうじ茶ソフトクリーム」を食べました。

 

 

小町通りは気軽に買い食いが出来るお店や、伝統工芸の鎌倉彫のお店、土産物店も多く、いつ行っても賑わっています。

ネット検索したらオススメのお店など出てきますが、小町通りはそんなに長い通りではないので、何も考えずにフラフラ~と歩いて、その時目に付いたものを買ったり、美味しそうだなーと思ったお店に入ったりして、散策を楽しむと良いかと思います。

 

 

【鎌倉大仏殿 高徳院の記事】でもとりあげた「鎌倉まめや」も、鎌倉駅にお店があります。

 

 

江ノ電グッズをそろえたおもちゃ屋さんもあるので、子連れの散策も楽しいですよ。

 

 

 

 

私達は鶴岡八幡宮前の「若宮大路(わかみやおおじ)」も歩きたかったので、小町通りを半分過ぎたころ(徐々にお店の数が減ってくる)、右折しました。

若宮大路は、由比ヶ浜(滑川交差点)から鶴岡八幡宮に通じる参道で、約1.8km。

鎌倉幕府の創始者である源頼朝が京都(平安京)の朱雀大路を参考にして作らせました。

鎌倉の都市計画のためと、妻・政子の安産祈願のためだったそうです。

 

頼朝は政子の安産祈願を、いろんなところでしています。

→→箱根神社の記事はこちら・・・神奈川県箱根町。
→→大國魂神社の記事はこちら・・・東京都府中市。

 

 

鶴岡八幡宮から由比ヶ浜側まで伸びている長い若宮大路ですが、写真の二の鳥居から奥の三の鳥居までの間は、盛土によって中央部分が一段高く、両側は堤を築いて石を置いた歩道になっています。

 

 

これは、段葛(だんかずら)と言い、もともと鶴岡八幡宮の社頭から一の鳥居までの1,300mにわたってつくられたのですが、地震・津波の破壊や、JR横須賀線の開通で一部撤去されたことにより、現在は480m(約3分の1)しか残っていません

 

段葛は遠近法によって実際の距離よりも長く見えるよう、鶴岡八幡宮側に道幅が狭くなっています。

 

このような道は、現在では鎌倉にしか残っていないようで、歴史的・土木史上の遺跡史料として貴重なものとなっているそうですよ。

 

小町通りも楽しいですが、団蔓(だんかずら)も歩いてみてはいかがでしょうか。

 

 

人力車も楽しめますよ♪

 

 

 

 

鶴岡八幡宮に到着。写真は、三の鳥居。

 

 

境内図。

 

 

三の鳥居をくぐると、太鼓橋が見えてきます。

太鼓橋は神様が通る道なので、渡れません。

太鼓橋の東西には、「源平池」があります。

実はこれ、東のほうが源氏池で、西のほうが平家池

 

 

東側の源平池には「政子石」という、夫婦円満の祈願石と弁財天があります。

 

源氏池の旗上弁財天社。

 

面白いのが島の数で、東の源氏池には三つの島、西の平家池には四つの島があるのですが、源氏は「三→産(繁栄)」で、平家は「四→死(滅亡)」の意味がこめられているそうですよ。

 

 

源氏池。
源氏池も平家池も、夏期は紅白の蓮が美しく咲きます。

源氏は白旗で、平家は赤旗なので、紅白の蓮なのでしょうか。

かつては分かれていたのでしょうが、現在仲良く同じ池で、紅白入り混じって咲いています。

 

 

池には気持ちよさそうにコイとカモ。

 

 

蓮の種。これを見てゾワッとする人は、集合体恐怖症(トライポフォビア)でしょう!

 

 

舞殿(下拝殿)。
静御前(しずかごぜん)が、義経を慕い、心を込めて舞った若宮廻廊跡に建っています。

 

 

静御前は、昔ここにあった若宮廻廊で、源頼朝に命じられて舞を踊りました。(静御前は気乗りしませんでしたが、北条政子が「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々帰るのに、その芸を見ないのは残念なこと」としきりに頼朝に勧め、「八幡大菩薩に供えるのだから」と言って静を説得したそうな)

 

 

 

静御前が舞い唄ったのはこちら。

 

「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
(しずの布を織る麻糸をまるく巻いたおだまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)

 

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)

 

 

 

「義経が恋しい」と、目の前で舞われた頼朝の心中は、さぞかし苦々しかったでしょうね。

というのも、この時、頼朝と義経の、異母兄弟仲は険悪だったんですねぇ・・・。

 

発端は、壇ノ浦で平家を滅ぼした功績により、異母弟の義経が、後白河法皇から検非違使の位を授かったこと。

兄の頼朝は、武士政権を作りたかったのですが、義経が自分に許可なく後白河法皇(頼朝には敵のようなもの)から褒美を授かり、出世してしまったので、義経に対して危機感を募らせたのです。

後白河法皇は、「頼朝vs義経」の構図を作って、共倒れさせることを企んでいたようです。(頼朝は後白河法皇を「日本一の大天狗」と揶揄した)

 

 

ちなみに後白河院は、歴代の上皇のなかで最多となる、34回もの熊野詣を行うほどの熱烈な熊野信者でした。

→→熊野本宮大社(世界遺産)の記事はこちら・・・熊野三山をまとめていたのは、弁慶の父とも言われている21代熊野別当「湛増(たんぞう)」でした。

→→闘鶏神社の記事はこちら・・・近くに弁慶生誕の碑がある。弁慶の父とされる湛増(たんぞう)が、平氏に着くか、源氏に着くか、鶏を戦わせて神意を確認した神社です。

→→三段壁洞窟の記事はこちら・・・湛増(たんぞう)率いる熊野水軍が、船を隠した洞窟。熊野水軍の大活躍は、源氏を勝利に導いた。

 

 

後白河院・・・、ひたすら熊野の神様を拝んでいたのではなく、なんだかいろいろ動いていそうですね。平家、木曽義仲、源義経、奥州藤原氏を滅ぼした人ですからねぇ。すごい切れ者だったんでしょうね。(ちなみに後白河院の兄であった崇徳院は、後白河院を恨みながら憤死して日本一の怨霊になった。→→【「怨霊になった天皇」】

 

 

そんな「日本一の大天狗」の後白河法皇から褒美を受けた義経は、頼朝からしたら邪魔者でしかありません。

そこで、「義経、弁慶をとらえよ」と命令を出していました。義経は捕まったら罪人として処刑されるので、逃亡します。

話が長くなりましたが、そのような経緯で対立している義経を恋しく思う舞いを目の前で堂々とやった静御前に、頼朝は激怒しましたが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成し、命を助けたそうです。

 

実はこの時、静御前は義経の子供を妊娠していたのです。

 

頼朝は「女子なら助けるが、男子なら殺す」と命じました。

 

悲しい運命ですね・・・。

 

「女の子であったら・・・」
「男の子であっても頼朝が許してくれたら・・・」
「だれか逃がしてくれたら・・・」

いろんな思いがあったでしょうね。

 

舞を踊った約四ヵ月後、静御前は男子を産みました・・・。

静は泣き叫んで赤ちゃんを離さなかったそうですが、結局取り上げられ、赤ちゃんは由比ヶ浜に沈められたそうです・・・。

それから一ヵ月半後、静御前は京都に帰されたそうですが、憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたそうです。

その後の消息は不明・・・。

 

 

同じ女性として、胸が痛みます・・・。

どれだけ辛かったでしょうか・・・。

京に帰った後は幸せに生きたのでしょうか・・・。

 

 

 

 

一方、逃亡した義経はどうなったのかというと、源頼朝の要求に屈した藤原泰衡に襲撃され、衣川館(ころもがわのたち)という奥州藤原氏の居館(場所は岩手県西磐井郡平泉町高館)の持仏堂で、正妻の郷御前と4歳の娘を殺害した後、自害したそうです。享年31歳。(また後日、平泉を紹介します)

この襲撃の時、武蔵坊弁慶は義経を守り、無数の矢を受けましたが、ナギナタを杖にして仁王立ちのまま息絶えました。(弁慶の立ち往生)

義経は「自害した」となっていますが、実は生き延びてモンゴルに渡ったとも言われています。(あちこちに義経が逃げた足跡がある。北海道にもあるようです。北海道には、アイヌの娘と義経の悲恋の話「神威岩伝説」があります)

 

義経生存説・・・、どうなんでしょうね~。
歴史ミステリー、おもしろいですね。

(他に、織田信長はスペインに逃げたとか、明智光秀は天海になったとする説もある。大阪夏の陣では、真田幸村生存説と、徳川家康死亡説がある)

 

ちなみに、北海道には義経にまつわる伝説がたくさん残っており、「義経は平泉で死なずに北海道でアイヌと交流していたのでは・・・」と私は信じています。

 

 

さてさて、兄の頼朝は、後鳥羽天皇から征夷大将軍に任命され、日本初の武家政権となる「鎌倉幕府」を立ち上げました。(平氏政権を日本初の武家政権とする説もある)

 

武家政権による国政は、室町幕府、江戸幕府へと継承されていき、王政復古まで足掛け約680年間に渡って続くことになります。

 

念願の鎌倉幕府を開いた頼朝は、どのように亡くなったかと言うと、相模川で催された橋供養からの帰路で、体調を崩して亡くなったとする説と、落馬がもとで死んだ説があるんですねぇ・・・。

結局、死因は不明のようで、享年53歳でした。

 

・・・これがですね、最近知ったのですが、私が現在住んでいる地域は昔「稲毛三郎重成」という武将が統括していたところなのですが、彼の妻が北条政子の妹なんですね。その妻が、亡くなったので、相模川に橋をかけて落成供養を執り行ったのですが、ここに出席した頼朝が、帰りの道中で落馬し、それが元で死去しているのだそうです。

稲毛三郎重成・・・、ひょっとしたら、頼朝の死因を知っていたかもしれません。

→→枡形山(ますがたやま)の記事はこちら・・・神奈川県川崎市多摩区。稲毛三郎重成の枡形城があったところ。妻は、北条政子の妹だった。枡形山近辺は、関東ローム層研究発祥の地です。

→→【源頼朝の墓】 鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の死因は落馬ではなく、暗殺??・・・鶴岡八幡宮の近くです。

 

頼朝の子供たちは(孫も)、だいたい不幸な最期を遂げています。

 

  • 長女「大姫」・・・婚約者を頼朝の家来に殺されて、心を病み、二十歳で死亡。
  • 長男「頼家(よりいえ)」・・・頼朝死後、二代将軍になりましたが、実権を握りたい北条氏と比企氏の争いに巻き込まれ、伊豆修善寺に幽閉されたのち、入浴中に北条氏の刺客によって殺された。享年23歳。→→【修善寺】の記事はこちら
  • 次男「実朝(さねとも)」・・・兄亡き後、三代将軍になりましたが、鶴岡八幡宮で兄・頼家の子(実朝からしたら甥っ子)に殺されてしまいました。享年27歳。
  • 次女「乙姫」・・・13歳で病気により急死。

 

頼朝と、北条政子の子供は、このように全て若くして亡くなってしまいました。孫もけっこう死んでいるので、権力争い・・・、恐ろしいですねぇ・・・。

 

政子はどのような思いで、子供全てが死ぬのを見ていたのでしょう。

 

実家、子供、孫までもが権力争いで血塗られていくのは・・・私なら精神崩壊しますね・・・。

 

それにしても、北条は源氏を捨て駒にして、政権を乗っ取ったようなものですねぇ・・・。

北条は「平氏」ですからねぇ・・・。(北条は平氏の本家で、平清盛一族は分家。源平合戦とは、調子に乗った分家を、平家本流が潰した戦いであった)

 

 

舞殿の左奥に、樹齢1,000年の銀杏の大木があったのですが、平成22年(2010年)に倒れてしまいました。

この写真は、その2年後に撮ったもので、左が親銀杏、右側には小さな子銀杏がありました。

この倒れた銀杏の陰に、頼家の子の公暁(こうぎょう)が隠れて、鎌倉幕府三代将軍実朝を暗殺したのかな・・・?  甥っ子に殺されるなんてどんな気分だろうか・・・。

 

 

こちら、2022年に訪れた時のもの。

 

 

子銀杏がすくすくと成長していました♪

 

 

本宮へ向かう階段の右手側には祈祷受付所があり、ハトがたくさんいました。

 

 

鳩みくじもあります。ハトは八幡神の化身なのだそうです。

 

若宮。

 

 

20022年に訪れた時は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送中であったため、大河ドラマ館が開館していました。

 

 

このまま階段を上がった先にある本宮を紹介したいのですが、ちょっと長くなってきたので、次の記事に「鶴岡八幡宮例大祭」の写真と共に書きたいと思います。

 

次の記事はこちら

前回の続きで、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮の続きです。 小町通り~舞殿(下拝殿)まで書いたので、今回は階段の上にある本宮(上宮)と鶴岡八幡宮例大祭について書きます。 毎年9月14日から16日までの3日間執り行われるので、お出かけし[…]

 

 

 

 

義経ファンの方は、京都の鞍馬寺、弁慶の故郷である和歌山県田辺町の記事もどうぞ。

→→【鞍馬寺(くらまでら)】の記事はこちら・・・京都府。義経は7歳で鞍馬寺に預けられた。本当は僧侶になる予定でしたが、源氏棟梁の血を引くことを知り、平家打倒を決意。鞍馬山で修業をしました。幼名は牛若丸(うしわかまる)。

→→【闘鶏神社(世界遺産)と、弁慶生誕地の碑】の記事はこちら・・・和歌山県。武蔵坊弁慶の記事です。

 

 

(この参拝記は、2012年と2022年のものです)

 

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→→【源頼朝の墓】 鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の死因は落馬ではなく、暗殺??

→→ 報国寺(竹寺)・・・ミシュランガイド三ツ星獲得の通称・竹寺で抹茶を楽しむ。

交通アクセス

鎌倉駅から鶴岡八幡宮まで徒歩13分くらいです。
途中に、小町通りがありますので、お買物をしながら楽しく徒歩で向かえます。
車で行く場合、鶴岡八幡宮専用の駐車場があります。祈祷利用者2時間無料。一般参拝者は、1時間600円。
ほかに、鎌倉駅周辺に有料駐車場がいくつかあります。(鎌倉駅西口のシンコウパークなど)
繁忙期は満車になりますので、パーク&ライド(鎌倉地域の周辺にある既存の駐車場に駐車し、江ノ電等の公共交通機関に乗り換えて目的地に向かう方法)を利用するのをおススメします。
鎌倉市HP パーク&ライドについて

フリー切符

小田急線と江ノ電を使う方は、江の島・鎌倉フリーパスがお得です。

また、鎌倉観光には、鎌倉フリー環境手形もお得です。(1月1~3日は買えません)  長谷駅(大仏がある駅)~鎌倉駅(小町通り・鶴岡八幡宮)の江ノ電が乗り放題。北鎌倉や浄明寺、竹寺で有名な報国寺方面への路線バスも乗り放題です。
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