今日は和歌山県九度山(くどやま)町の観光スポットについて書きたいと思います。
見学記
九度山(くどやま)町でにぎわっている観光はズバリ「真田幸村(本名は信繁)」!
九度山・真田ミュージアムは、九度山町のオススメスポットです!
公共交通機関で行く場合、南海高野線九度山駅で下車し、徒歩10分(750m)です。
私達は車で行きました。最寄り駐車場は「道の駅柿の郷くどやま」で、9時から開いており、入り口近くに真田信繁(幸村のこと)の甲冑があり、記念写真が撮れます。
到着したのは9時半で駐車場の4分の1くらいしか埋まっていませんでしたが、正午近くになると満車になっていたので、早めに到着するのをお勧めします。(NHK大河ドラマ「真田丸」が放送中だったので、人気だった)
道の駅柿の郷くどやまから真田ミュージアムまでは、丹生川に架かる橋を渡って徒歩5分くらいです(途中、けっこう傾斜のきつい坂があります)。
グーグルストリートビューから持ってきた写真。
入館料は、高校生以上の大人500円、小中学生250円。営業時間9:00~17:00(最終入場16:30)
真田ミュージアム内は写真撮影OKですが、展示中盤にある刀と、指定された展示は写真撮影禁止です。
入り口を入ってすぐにカメラで写真撮影をしてくれ、退場する際、一枚1000円くらいで購入できます。
カメラの預かりはしていないので、自分達が持参したカメラでは写真撮影してくれません。
子供が入場すると、かわいいシールがもらえます。
実は、私は「NHK大河ドラマ 真田丸」を見ていませんので、話をほぼ知りませんでした。
真田ミュージアムは1時間もあれば見て回れるのですが、場内には九度山における雌伏(しふく)の時と、大阪の陣合戦解説動画があるので、歴史を知らない方でも、だいたいわかるようになっています。
ちょっと脱線しますが、ミュージアムの近くにあるお店で買ったお土産。右側に映っている漫画本はわかりやすくてオススメです。
私は読書が好きなのですが、子供が生まれてから本を読む時間がとれなくて、漫画を読むようになりました(一時間くらいで読み終わるからラクである)。
祖父・幸綱、父・昌幸、兄・信幸と、信繁(幸村として有名)のことが、それぞれの人物を主人公にして短編集として書かれているので、とてもわかりやすいです。お値段も1000円くらいでお手ごろ。
では、展示の紹介にうつります。
真田信繁(のぶしげ)。真田幸村(ゆきむら)として知られている人物です。
なぜ幸村の名前ばかりになって信繁の名前がかすんでしまったかと言うと、信繁が戦死した大阪夏の陣から60年近く経った寛文12年(1672年)に刊行された軍記物の「難波戦記」という書物に「真田幸村」として登場したからだそうで、信繁本人は一度も「幸村」の名前を使わなかったそうです。
国学者でもある徳川光圀(水戸黄門)がわざわざ「幸村というのはあやまりなり」と書き記したほどだそうです。
真田信繁(幸村)が書いた書状。
ほら、「信繁」と書いてありますね。
「幸村」の名前は江戸初期に書かれた「難波戦記」で、幕府に敵対した実在の人物「信繁」を使うのをはばかり、幸村にしたと言われています。(諸説あり)
真田幸村は歌舞伎でも大人気。
市川団十郎も演じました。
江戸時代の浮世絵。
かっこいいなー!
現在でもクールジャパンで漫画やアニメが大人気ですが、江戸時代の浮世絵もさぞかし外国人の心をひきつけたでしょうね。
この迫力!
作者は、浮世絵師「二代長谷川貞信」です。
真田昌幸・信繁(幸村)親子は、徳川家康を憎んだでしょうが、こんな素晴らしい文化が花開いた江戸時代の礎を築いた徳川家康はやっぱり偉大だと思います。
平和じゃないと、娯楽文化は花開きませんものね。
長い間、戦国時代で庶民は苦しみましたが、徳川幕府は約260年も続き、その間、飢饉や災害などはあったものの、比較的平和だったんじゃないのかなぁと思います。
さて、そんな徳川家康を、なぜ真田父子は憎んだかと言いますと、真田信繁(幸村)の父である昌幸(まさゆき)の生きた時代は食うか食われるかの戦国時代で(まだ天下統一されていない下克上の世)、真田郷(長野県にある)は上杉、徳川、北条に囲まれており、父・昌幸はなんどもなんども主君を変えて生き残っていました。
そんな時、武田時代の盟友である依田のぶしげが「徳川に味方してほしい」と頼みに来たのです。
このとき、徳川家康は北条氏と争って苦しんでおり、昌幸は「今の真田の領地を認め、さらに領地を増やす」という条件をのんで、それまで従っていた北条氏を裏切り、徳川軍を援護しました。
真田が援軍にまわった結果、徳川は勝利します。
ここで「タヌキ親父」とも呼ばれた腹黒家康は、北条氏と和睦を結ぶ際、なんと勝手に真田の領地である沼田を北条氏にあげると約束してしまったのです!
これに昌幸激怒!
「北条を裏切ってまで徳川に加勢して勝たせたのに、なんで自分の領地を減らされるのだ!?」
(確かに酷いよね・・・)
激怒した昌幸は、沼田を明け渡しませんでした。
和睦の条件として沼田を北条に渡す必要のあった家康は、7,000人あまりの軍勢を差し向けますが、昌幸は2,000あまりの兵で撃破し、徳川軍を退却させます。(これを「第一次上田合戦」と言います)
この後、昌幸は秀吉と好誼(こうぎ)を結び、秀吉の助けを借りて家康と調停を結びました。
それから真田は、家康と共に秀吉の下で闘い、秀吉は天下統一。真田一族も領土を保証されました。
しかし、秀吉死亡。
天下人がいなくなり、武将たちが再びざわつくことに・・・。
ここで「待ってました!」と出てきたのが徳川家康で、石田三成をはじめとする豊臣方と争うことになります。
真田は因縁の徳川につくのか、それとも豊臣方(秀吉の妻・淀殿と、子供の秀頼)につくのか・・・。
真田父子犬伏密談図。徳川家康につくのか、豊臣方につくか話し合っているところです。
右側が真田昌幸(まさゆき)。一番左と真ん中が、昌幸の子供で、兄の信幸(後に信之と改名)と弟の信繁(幸村のこと)。
真田昌幸(まさゆき)と信繁(幸村)は豊臣方につき、信繁の兄・信幸は徳川方につくことを決意し、わかれます。
豊臣方についた昌幸と信繁は、徳川秀忠(家康の子どもで、後に第二代将軍になる)と、第二次上田合戦で争いますが、またしても真田の勝利。(ちなみに徳川方は38,000人で、真田方は3000人くらいだったと言われている。真田は戦上手ですね。秀忠は悔しかったでしょう)
当然家康は激怒し、自分を裏切った昌幸と信繁(幸村)に死を命じますが、かわいがっている真田の長男 信幸(信繁の兄)や、その舅や重臣にいさめられ、高野山へ配流にします。
昌幸・信繁親子は、高野山蓮華定院から九度山に屋敷を構え、昌幸は死ぬまでの11年間を九度山で過ごすことになりました。
九度山での貧乏生活を支えてくれた「真田紐」。とっても丈夫だったそうです。
ウィキペディアには面白いことが書いてありました。
サナダムシ(腹に住み着く寄生虫)は、形状が真田紐に似ていることからその名が付いた。
また、一説では徳川家康がサナダムシに苦しんでいた事から、真田は虫になってまでもこの家康を苦しめる、と嘆いた事から家康が名付け親と言われる事もある。
なんだか笑えますね~。
サナダムシを知りたい方は、「サナダムシ 画像」で検索してくださいね。
真田の漫画本を読んでいたら息子が横から「家康って、鯛のてんぷらを食べて三ヵ月後に死んだんだよ~」と言い、嘘やろと思ったのですが事実のようで。
といっても、食中毒ではなく、ガンなど他の病気が疑われているようですが。
家康の墓所は、栃木県の日光東照宮です。
九度山での蟄居生活を支えてくれたのは、徳川についた昌幸の長男で、信繁の兄 信幸(のぶゆき)でした。
信幸は父・昌幸の死罪を、家康に掛け合って免れた後、「信之」に改名するのですが、それは父の名前にもあった「幸」の字を捨て、徳川に忠誠を示すためであったそうです。
このお兄さんがなかなか苦労人で大変です。
詳しいお話を知りたい方は、マンガで読む真田三代をお読みください。
真田父子は面白いですね。
父・昌幸は敵味方をコロコロ変えて生き残り、兄・信幸は徳川に忠誠を誓い、弟・信繁は自分をかわいがってくれた豊臣と父に忠誠を誓います。
父が死んだ後も、信繁の九度山での蟄居生活は続くのですが、やがて豊臣方から援軍を要請され、大阪へ向かうことになります。
ちなみに、九度山に蟄居していた信繁を大阪の陣に誘ったのは「大野治長」という人で、この人は秀吉と淀殿の次男(長男は三歳で死んだ)である「秀頼」の実の父親かもしれないという人なんですねぇ・・・。
秀吉は子供に恵まれなかったため、甥の秀次に家督を相続させていたのですが、淀殿が待望の子ども・秀頼を生んだため、秀次が邪魔になって強制的に出家させ 高野山青巌寺(現在の金剛峯寺)に蟄居を命じ、後に切腹させました。(秀頼が自分の子どもかもわからないのに、甥を死にやった)
さて、真田信繁に話を戻しますが、大阪城入りし京都進撃を唱えましたが、大野らに頑強に反対されたため、大坂城籠城になりました。
そこで作られたのが、「真田丸」という出城で、大阪冬の陣で大活躍!
信繁らは幕府軍に大きな損害を与えますが、大阪方(豊臣)と幕府軍(徳川家康)の双方の食料と弾薬が尽き始めたため、大阪冬の陣は和議となりました。(淀殿の居室に砲弾が着弾し、淀殿が怖がったので、家康の和議提案を受けたらしい。秀頼は反対していたそうな)
双方は和議となったのですが、お互いに約束を破ってもめ事がいくつか起こったため、家康が戦の再開を指示、大阪夏の陣勃発。
真田信繁は、豊臣軍の士気を高めるために、秀頼が前線に出馬することを望みましたが、実現しませんでした。(淀殿が、我が子可愛さに許さなかった?)
秀頼不在のまま、信繁は「日本一の兵(つわもの)」と、敵味方双方から称賛されるほどの攻勢をし、一時は家康に自刃を覚悟させるほどにまでに追いつめたのですが、退却中に討ち死に。
他の大坂方の部隊も、次々と壊滅。
大野治長は自分の切腹と引き換えに、秀頼と淀殿の延命を請いましたが聞き入れられず、秀頼、淀殿、大野らは、共に大阪城で自害しました。
これで豊臣の勢力は消え、徳川家康から始まる江戸幕府が265年間も続くことになるのです。
冥銭(三途の川の渡し賃は6文だといわれていた)を表している真田の家紋、六文銭。
信繁・・・、生き様がカッコいいですねぇ・・・。ファンが多いのも、うなずけます。(私は、別の道を歩んだ信幸もカッコ良いと思う!)
戦いの舞台となった大阪城には、信繁が作ったとされる抜け穴があるそうです。
信繁は、息子の大助と、豊臣秀頼の3人で、薩摩に逃亡したとする説もあるようです。
真田信繁の他に、有名な生存説は、織田信長(スペインに渡った?)、明智光秀(天海になった?)、源義経(チンギスハンになった?)でしょうか。
歴史って面白いですね。
信繁(幸村)生存説がある一方、徳川家康の死亡説もあります。
大阪府堺市の南宗寺には、
との伝説が伝わり、家康の墓があるそうです。
南宗寺の場所は、戦災で焼けるまで「東照宮」があったそうです。(東照宮の祭神は徳川家康です)
南宗寺に訪れる機会があったら、また記事にしたいと思います。
徳川家康が大阪夏の陣で死んだのかどうかわかりませんが、家康(本物か影武者かわからないけれど)は長生きをして静岡県の久能山東照宮に葬られ、その一年後に栃木県の日光東照宮へ移されたとあります。
火縄銃。大きいし重い!
真田十勇士。架空の人物も含まれています。
九度山まちなかマップ。
真田ミュージアムから徒歩で歩いていける距離に、真田古墳と真田庵がありますので、真田ファンの方は併せてご覧になってください。
私達は息子が歴史に興味が無く退屈そうにしていたので(こればっかりは仕方がない・・・)、そのまま道の駅柿の郷くどやまへ戻りました。
道の駅には、遊具が置いてあるし、御飯も食べられます。秋に訪れる方は柿を買ってください! 美味しいですからっ!
真田ミュージアムから道の駅への帰り道に、九度山芸術祭りに寄りましたので、次の記事で書きたいと思います。
続けて、和歌山県九度山(くどやま)町の観光を取り上げます。 【九度山・真田ミュージアム】のあと、開催されていた「くどやま芸術祭」に寄りました。 見学記 くどやま芸術祭りマップ。 &[…]
(この旅行記は2016年です)
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(真田ファンに追加情報)
夫のふるさと青森県では、毎年「田んぼアート」を開催しており、2016年は真田丸でした。
これ、全部稲です!
→→田舎館村役場 第1会場「田んぼアート」の記事はこちら・・・青森県田舎館村
2007年に撮った写真。どこかというと、大阪城。
夫がかぶっているのは豊臣秀吉のカブトで、私がかぶっているのは真田信繁(幸村)のカブトです。
天守閣2階で試着体験が出来ます。私達が行った時は200円か300円だったと思うのですが、現在500円です。
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(九度山町の観光)
→→慈尊院(世界遺産)。空海の母と関わりの深い寺で、乳房型の絵馬がある・・・道の駅九度山から徒歩10分です。
→→丹生官省符神社(世界遺産)。弘法大師空海が創建したお社です。
交通アクセス
公共交通機関で行く場合、南海高野線九度山駅で下車し、徒歩10分(750m)です。
(和歌山駅から行く場合、橋本駅で南海高野線に乗り換え、九度山駅で下車。料金は1100円、一時間半の乗車時間)
遠方から行く場合、 新大阪駅で新幹線をおります。
電車の乗り換えはヤフー路線などでお調べください。
車で行く場合、真田ミュージアム専用の駐車場はありません。付近には道の駅など5箇所の無料駐車場があり、一番大きいのは「道の駅柿の郷くどやま」です。
料金について
高校生以上の大人500円
小中学生250円。
営業時間9:00~17:00(最終入場16:30)
近くの宿泊施設
中川旅館。九度山駅から徒歩数分。