【如意輪寺・後醍醐天皇のお墓 塔尾陵(とうのおのみささぎ)】 歴代天皇陵の中で、唯一北向きに作られた御陵

前回、神奈川県鎌倉市にある鎌倉宮(かまくらぐう)を取り上げました。

鎌倉宮に祀られているのは、初代南朝天皇である後醍醐(ごだいご)天皇の皇子・護良(もりなが)親王。

今日紹介するのは、護良(もりなが)親王の御父君である、第96代天皇・後醍醐(ごだいご)天皇の陵墓「塔尾陵(とうのおのみささぎ)」と、如意輪寺(にょいりんじ)です。

参拝記

第96代天皇・後醍醐(ごだいご)天皇のお墓である「塔尾陵(とうのおのみささぎ)」があるのは、奈良県の吉野山(よしのやま)。

 

吉野山は日本一の桜の名所として有名で、山全体が世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録されており、金峯山寺(きんぷせんじ)・吉水(よしみず)神社・吉野水分(よしのみくまり)神社・金峯(きんぷ)神社などの世界遺産の建造物を回ることができます。

 

 

今日紹介するのは如意輪寺(にょいりんじ)と後醍醐天皇陵です。

後醍醐天皇陵「塔尾陵(とうのおのみささぎ)」を目指す方は、如意輪寺(にょいりんいじ)をカーナビにセットして行きましょう。住所は奈良県吉野郡吉野町吉野山1024です。私は桜井吉野線沿いにある如意輪寺駐車場から歩いて行きました。
近鉄吉野駅から徒歩で向かう場合、35分かかります。

 

桜井吉野線沿いにある如意輪寺駐車場にはトイレもあります。

 

 

看板に出ているように、如意輪寺は楠木正行(くすのきまさつら)ゆかりのお寺です。

楠木正行は、後醍醐天皇と共に鎌倉幕府を倒した楠木正成(くすのき まさしげ)の嫡男。南北朝時代、後醍醐天皇は南朝第一代天皇となり、南朝第二代天皇となった後村上天皇(後醍醐天皇の皇子)に仕えた武将です。

 

 

後醍醐天皇陵は本堂の奥にある階段を上がった先です。

 

「思いたったが吉日 思案だけでは何も出来ない」

思っているだけではなく、行動に移すことが大切です!

 

 

 

如意輪寺(にょいりんじ)は平安時代の905年に日蔵上人が開いたお寺で、本尊は如意輪観世音菩薩です。

第96代後醍醐(ごだいご)天皇は天皇を中心とした政治を行うべく鎌倉幕府(北条幕府)を倒し、建武の新政を行いました。しかし後に、足利尊氏と対立することとなり、尊氏は光明天皇を擁立して京都に北朝をたて、後醍醐天皇は奈良の吉野に南朝をひらきました(南北朝時代については、【南朝黒木御所跡と供養塔】の記事でご覧ください)。

如意輪寺は、後醍醐天皇が南朝吉野行宮(あんぐう)を定めた際に勅願所とされ、後醍醐天皇は日々御祈祷に来られていたそうです。しかし北朝と和解するに至らず、京都に帰ることなくこの地で病気で薨去(こうきょ)され、如意輪寺御堂のうしろの林の奥に葬られました。

→→【吉水神社】 世界遺産。後醍醐天皇、源義経、豊臣秀吉が残した宝物がたくさん。参拝方法が特殊で「二礼・十七拍手・一拝」・・・すぐ近くです。後醍醐天皇が、南朝吉野行宮(あんぐう)を定めたところ。

 

 

境内には後醍醐天皇腰掛石。

 

 

本堂の奥に階段があり、南朝初代天皇である後醍醐(ごだいご)天皇の御陵「塔尾陵(とうのおのみささぎ)」へとつづいています。

 

 

こちらが、後醍醐(ごだいご)天皇の御陵「塔尾陵(とうのおのみささぎ)」。

南北朝時代について簡単に説明しますが、今年(2022年。令和4年)は、皇紀2,682年・・・つまり、神武天皇が橿原で天皇に即位してから、その子孫がずーーーーっと皇位に就いて2,682年です。

こんなに歴史の長い王家を持つのは日本のみで、今上天皇(令和の天皇陛下)は第126代天皇です。

→→【橿原神宮(かしはらじんぐう)】の記事はこちら・・・奈良県橿原市。初代天皇である神武天皇が即位した「日本のはじまりの地」です。

→→【皇居参観の見どころ】の記事はこちら・・・東京都千代田区。皇居は無料でガイドしてもらえます。

 

しかし、その長い年月の間は、ずっと穏やかだったわけではなく、天皇家の身内同士での争いや、その取り巻きの争いなど波乱に満ちており、島流し、幽閉、追放などの憂き目にあった天皇は多数いるのだそうです。

中でも、特に大荒れだったのが「南北朝時代」と言われるもの。

通常、天皇は一人ですが、南北朝時代は、京都の北朝(ほくちょう)と、大和(奈良)の南朝(なんちょう)の、それぞれに天皇が即位する(つまり二人の天皇がいた)という、異常事態

 

 

 

 

そのきっかけとなったのが、如意輪寺奥の御陵で眠る「後醍醐天皇(ごだいごてんのう)」。

後醍醐天皇が活躍した鎌倉時代、天皇家は「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂し、揉めていました。

このころ、朝廷以上に力を持っていたのが武士政権である鎌倉幕府で、源頼朝から始まった幕府は、良い働きをした武士に褒美として土地を与える(御恩と奉公)ことで統率し、150年間も力を有していました(頼朝の子孫は早々に死んでしまい、長い間、北条幕府だった)。

 

「持明院統」と「大覚寺統」が皇位継承で争うため、鎌倉幕府は間に立ち、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承するよう裁定。

そこで後醍醐天皇は、天皇中心の政権を作るため(口出ししてくる幕府が邪魔)、楠木正成(くすのきまさしげ)、新田義貞(にったよしさだ)、足利高氏(あしかがたかうじ)などの鎌倉幕府に反感を持つ武士を味方につけて、鎌倉幕府を討ちました。

鎌倉幕府倒幕で武勲を立てた足利高氏に、後醍醐天皇は諱・尊治(たかはる)から、「尊」の字を与え、高氏は尊氏に改めました。

足利尊氏(あしかが たかうじ)・・・、後に足利幕府(室町幕府ともいう)の初代将軍になる人物です。

さて、北条を討ち、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、公家と武家を統一した政治を目指します。

それが、「建武の新政(けんむのしんせい)」。

天皇中心の政治を作ろうとした後醍醐天皇ですが、後に尊氏が幕府(武家政権)を作ったということから見ても、建武の新政が上手くいかなかったことがおわかりになるでしょう。

その大きな原因は、後醍醐天皇が、民から土地の所有権を取り上げ、新たに土地所有権や訴訟の申請などに関して、天皇の裁断である「綸旨」を必要としたことでした。

これで武士らが混乱。

また、後醍醐天皇は、楠木正成らを武家でありながら初めて朝廷の要職につけるなどしましたが「天皇中心の政治を取り戻す」ことが目的であったため、武家を大事にしませんでした。

そこで、足利尊氏のもとに不満だらけの武士たちが集まり、尊氏は天皇の許しなく武士たちに土地をあたえ、さらに武家政権樹立の構えを見せたために、後醍醐天皇は激怒。

両者は、対立することになります。

 

はじめは後醍醐天皇側が有利で、尊氏は九州の大宰府にまで逃げましたが、「後醍醐天皇に没収された土地の返却を約束する」と武士を集め、さらに後醍醐天皇と対立する光厳上皇を味方につけ、大軍勢で京都に攻め入りました。

この京都の湊川の戦に敗れた後醍醐天皇側は、【比叡山】に逃げました。

京都に入った足利尊氏は、光厳上皇の弟である光明天皇を即位させ、北朝(ほくちょう)を成立。

後醍醐天皇は、後に比叡山を降りて、足利尊氏と和睦し、光明天皇に三種の神器を渡しました。(なんと、後に後醍醐天皇は、渡した神器は偽物だよ、と混乱させる事を言う!)

 

 

これで、天皇は後醍醐天皇から光明天皇へと引き継がれたのですが、後醍醐帝は諦められない!

幽閉されていた京都の公家の屋敷から、女装して逃走。大和(奈良)の吉野に、南朝(なんちょう)を開きました

南朝の初代天皇は、もちろん自分、後醍醐天皇です。(天皇の象徴である三種の神器はありませんが、後に取り返す)

このようにして、朝廷が、京都の「北朝」と、大和(奈良)の吉野にある「南朝」の二つに分かれ、同時に二人の天皇がおり、敵対するという異常事態が、60年ほども続いたのです。

 

南朝の天皇は、後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇の4人で、初めは吉野に開かれた南朝でしたが、南朝の興隆・衰退に従って、大和・河内・摂津・山城などに行宮を移転。

 

 

もう一度、後醍醐天皇の陵墓の写真。

後醍醐天皇は1339年8月16日に、右の御手に剣を、左の御手に経巻を握り、足利尊氏がいる京都をにらみつけたまま、病気のため崩御されました。

 

唯生々世々の妄念となるべきは、朝敵をことごとく滅して、四海泰平ならしめんと思ふばかりなり。

(中略)

これを思う故に玉骨はたとえ南山の苔に埋ずむる共魂魄は常に北闕(京都)の天を望まんと思ふ

天皇の御陵(お墓)は南向きですが、後醍醐天皇の御陵は唯一北向きの御陵となっています。

 

 

後醍醐天皇のお墓「塔尾陵(とうのおのみささぎ)」前で確認しましたが、確かに北(京都)の方を向いていました。(水色の丸が御陵の位置)

 

分断した南朝と北朝がどのような形でおさまったのかは、過去記事に書きましたのでご覧ください。

 

 

また、後醍醐天皇の皇子に護良親王(もりながしんのう)がおられ、若くして亡くなられたのですが(生存説もある)、鎌倉に御宮がありますのでご覧ください。

 

 

如意輪寺の説明にあるように、ここは後醍醐天皇の他、楠木正成(まさしげ)の息子である楠木正行(まさつら)ともかかわりの深い所です。

 

 

後醍醐天皇の皇子である第97代後村上天皇の時代、四条畷の決戦に向かう時、楠木正行(楠木正成の子)は参詣した者から少しずつ遺髪として髪を集め、本尊前に143名分を奉納。如意輪寺の本堂扉にやじりで辞世の歌を残し、23才で亡くなりました。この扉は宝物殿で見れるそうです。

また、楠木正成・正行の父子像も庭園にあるそうなので、楠木ファンは宝物殿・庭園を見学しましょう。拝観料は大人500円、中高生200円、小学生100円。

 

 

境内には難切不動尊もあります。

 

 

次は、後醍醐天皇が御祭神として祀られている吉野神宮を紹介します。

如意輪寺からは7.6km離れており、車で14分ほどの距離です。

 

次の記事はこちら

前回、南北朝時代の初代南朝天皇後醍醐(ごだいご)天皇の御陵(お墓)がある【如意輪寺・後醍醐天皇のお墓 塔尾陵(とうのおのみささぎ)】を紹介しました。 今日は、後醍醐天皇が御祭神として祀られている、吉野(よしの)神宮を紹介します。 参[…]

 

 

(この参拝記は2022年のものです)

 

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交通アクセス

後醍醐天皇陵「塔尾陵(とうのおのみささぎ)」を目指す方は、如意輪寺(にょいりんいじ)をカーナビにセットして行きましょう。住所は奈良県吉野郡吉野町吉野山1024です。私は桜井吉野線沿いにある如意輪寺駐車場から歩いて行きました。
近鉄吉野駅から徒歩で向かう場合、35分かかります。

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