【登戸研究所資料館】 風船爆弾(ふ号兵器)、怪力光線(く号兵器)、気象兵器、細菌兵器。帝銀事件もからめて紹介

今日は、神奈川県川崎市多摩区にある「登戸(のぼりと)研究所資料館」を紹介します。

登戸研究所は、戦前に大日本帝国陸軍によって開設された研究所で、正式名称は「第九陸軍技術研究所」と言い、風船爆弾、電波兵器、生物化学兵器、スパイ用品の開発、ニセ札製造などを行っていました。

終戦に伴い登戸研究所は廃止され、昭和50年に明治大学が登戸研究所の一部の土地を購入し「明治大学生田キャンパス」となりました。

見学記

登戸研究所資料館の見学記の前に、つい最近(2022年2月)、TVニュースで騒がれた中国の「偵察気球」ニュースを思い出しましょう。

 

2023日2月16日放送のテレビ朝日「羽鳥慎一のモーニングショー」より。

2023年2月4日に、中国の気球がアメリカ上空で発見され、南部サウスカロライナ州の沖合の上空で撃墜されました。この件以外に、10日、11日、12日にも気球が発見され、いずれもアメリカの戦闘機が出動し、一発5,300万円もする空対空ミサイル「AIMー9Xサイドワインダー」で撃墜。(偵察気球は、金属ではないのでレーダーに捉えにくく、発熱する場所が少ないので熱追跡式ミサイルでの撃墜が難しいため、大気との温度差で物体を追跡する高額ミサイルを使わないと撃墜できない。過去にオゾン測定用の気象気球が制御不能になり、カナダ空軍2機が機関砲1,000発以上を撃ったものの気球は飛行を継続した。気球は発見することも、撃墜することも難しいそうです)

 

中国政府は気球が民間の気候観測用だったと主張し、「意図せず米領域に入ったことを遺憾に思う」と謝罪に近い説明をし、事態の収拾に動きました。

アメリカ軍は気球の残骸を調査して、最初に撃墜された気球(2023年2月4日)は、通信を傍受できる複数のアンテナが搭載されており、情報収集のためのセンサーを作動させる太陽光パネルもつけられていたことから、人民解放軍の偵察気球だったと結論付けました。

2023年4月3日のNBCニュースは、複数の高官から得た情報として「気球は遠隔から操縦可能で、さらにリアルタイムでデータを中国に送信できた。8の字で動きながら、情報が必要な施設の上空をゆっくり飛んでいた」と報道。

元米政府関係者は、「気球は、戦略核兵器の関連施設や、ミサイル発射施設の通信などの電気信号のデータを収集していた。画像などを収集する衛星からでは得られない、軍事施設の無線情報や携帯電話などの信号など通信データ、さらに位置情報を偵察する目的だったようだ」と語ったそうです。

一方、中国は中国で、「過去にアメリカの偵察気球が中国に2022年から十数回も飛んできた」と主張しているそうです。(アメリカは否定)

 

アメリカ軍が中国の偵察気球を撃ち落としたことで有名になりましたが、2019年11月に鹿児島県で、2020年6月には宮城県で、2021年9月には青森県で、中国の無人偵察用気球が目撃されていたようです。

他に、台湾、ベトナム、フィリピン、インドも偵察の対象になっており、各地で偵察気球が目撃されているそうです。

 

 

この中国の偵察気球事件を受け、いろんなニュースサイトで報じられたのが、旧日本軍の攻撃。

「かつて大日本帝国陸軍が、たくさんの風船爆弾を製造して、アメリカを爆撃しようとした」

 

先に写真を載せておきますが、これが日本帝国陸軍が開発した「風船爆弾(ふ号兵器)」10分の1サイズの模型。

「風船爆弾??? 妙な兵器を作ったなー」と不思議に思い、登戸研究所資料館に見学に行ってきました。

 

 

冒頭に書きましたが、日本陸軍登戸(のぼりと)研究所があった土地は、1950年に明治大学が一部を購入したため、明治大学生田キャンパスになっています。

交通アクセスは生田(いくた)駅から徒歩10分。

新型コロナウィルス対策で事前に見学予約が必要でしたが、2023年4月から10名以下での個人見学は予約なしで見学ができるようになりました。

見学料金は、無料。見学日は、水、木、金、土曜日の10時から16時のみです。

さらっと見るなら一時間くらいでしょうが、映像を見たり、資料を一つ一つ丁寧に見ると3時間くらいかかります。

 

 

 

 

こちらが明治大学生田キャンパスの入り口。守衛さんに「登戸研究所資料館の見学に来ました」と告げて、敷地内へ。

 

 

のどかな明治大学生田キャンパス。

かつて大日本帝国陸軍の研究所だったなんて思えない・・・。

 

 

入り口から10分くらい歩いて、明治大学平和教育登戸研究所資料館に到着。

この建物は登戸研究所時代に第二科の生物兵器の研究開発していたところで、植物を枯らすための細菌兵器や、牛痘ウィルスの開発拠点でした。

2009年まで明治大学農学部の研究施設(36号棟)として使用されてしましたが、登戸研究所資料館に改装するにあたり、部屋割りや内装を登戸研究所時代の姿に復元するように努め、当時からの設備(流し台など)をなるべくそのまま残したそうです。

 

 

 

明治大学生田キャンパスには、この建物の他に、

弾薬庫や、

 

弥心(やごころ)神社など、六ケ所の戦争遺跡が残されています。

この弥心(やごころ)神社は、元研究員だった伴繁雄さんによると、「事故死した所員の霊を慰めるために建立された」のだそうです。

終戦まで中国のニセ札を作っていた5号棟は、登戸研究所時代から使われていた最後の木造建築でしたが、2011年に老朽化のため解体されたそうです。

どんどん戦争の記憶が薄れていく中で、登戸研究所資料館(元第二科)を残し、無料で開放してくれているのはありがたいことですね。

 

 

こちらが登戸研究所資料館の館内マップ。

  1. 第一展示室では、登戸研究所の活動の全体像と歴史
  2. 第二展示室では、風船爆弾、電波兵器など、主に物理学を利用した兵器の開発を行っていた第一科の紹介
  3. 第三展示室では、科学を応用した生物化学兵器やスパイ用品などを開発していた第二科の紹介
  4. 第四展示室では、主に中国大陸で展開された経済謀略活動のために、ニセ札を製造していた第三科の活動紹介
  5. 第五展示室では、本土決戦体制下の登戸研究所と所員の戦後などについての展示

となっています。

 

 

改修工事がされましたが、どことなく古めかしさを感じる館内。

 

 

館内にある暗室は、この建物に最初から作り付けられていたもので、写真の現像や細菌の研究などに使用されていたのだそうです。

入り口付近に立った時、なぜかしら頭の中をTVゲームのバイオハザードの洋館がよぎり(←バイオは1から6までと、リベレーションズ1と2をプレイ済み)、入れませんでした。ちなみにバイオハザードとは「生物災害」のことで、ゲームでは巨大製薬企業アンブレラが開発していた生物兵器が漏出し、1では研究所の洋館が、2と3ではアメリカの架空都市ラクーンシティが、4ではヨーロッパのとある村が、5ではアフリカが、6ではアメリカ&東欧&中国が、ゾンビ&怪物だらけになります・・・。

 

新型コロナウィルス対策でマスクの着用義務が必要な時期に訪れたので、マスクで「息苦しいわ」と思いながら館内を巡り、新型コロナウィルスは中国の武漢ウィルス研究所が遺伝子操作をして作成・漏出したもので、その研究所はアメリカから資金提供を受けていたり、コロナというよりかは新型コロナワクチンで世界的に健康被害が広がっていたりで、「私らってもろにバイオハザード(生物災害)社会にいるよな」と、不思議な気持ちになりました(ゾンビや怪物は出てきませんが)。

 

一見平和に見えますが、私達は戦時中にいるのだと思います。(2021年&2022年の超過死亡は、広島原爆での死者を超える →もう隠せない原爆級のワクチン死

 

 

 

では、資料館を見学しましょう。

第一展示室は、登戸研究所の活動の全体像と歴史の紹介です。

いつの時代でもどこの国でも戦争はありましたが、毒ガス・飛行機・戦車などの新兵器が登場し「総力戦」となったのは第一次世界大戦。日本は国力が無いため(国民も多くないし資源も乏しい)、秘密戦(敵国内の混乱を目指した戦争のやりかた)への傾斜が深まりました。

日中戦争が始まった1937年7月当時、日本軍は簡単に中国を負かすことが出来るだろうと考えていましたが、1938年に武漢(ぶかん)を占領した段階で、日中戦争は泥沼化。この戦局の打開策として、2年後の1939年(昭和14年)、陸密第1750号により「陸軍科学研究所登戸出張所(後の登戸研究所)」が設立され、風船爆弾、生物兵器、ニセ札作りなど、多様な秘密兵器を開発して、敵国内の混乱を目指した戦法に力を入れていくことになります。

陸軍の研究所は数多くありましたが、登戸研究所は特別な存在で、陸軍省から巨額の資金提供を受け、参謀本部の直接指導を受けていました。後に戦局が悪化しても、登戸研究所への予算が削られることは無かったそうです。

 

 

登戸研究所(上のマップのA、赤い四角で囲われたところ)付近には、他にこんなにたくさんの日本軍関連施設がありました。南にある東京陸軍兵器補給廠田奈(たな)填薬所は、現在「こどもの国」という広大な公園になっていますし、北西にある陸軍立川飛行場は国営昭和記念公園になっています。

ちなみに登戸研究所が出来る前、この地に何があったのかというと、「日本高等拓殖学校」というアマゾン開拓の中堅指導者を養成する私立学校の校舎だったそうです。

 

 

 

 

次は、第二展示室へ。

第二展示室は、風船爆弾電波兵器など、物理学を利用した兵器の開発を行っていた第一科の紹介です。

10分の1の風船爆弾模型。実物は直径10m、総重量182km。

千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来(なこそ)の3か所からアメリカに向けて放球されました。

「風船爆弾? なんじゃそりゃ」と思う方も多いでしょうが、実はこれ、1942年(昭和17年)の戦況の悪化に伴い、日本本土から直接アメリカ本土に攻撃を行うための「決戦兵器」として登戸研究所に開発が要望されたもの。

風船爆弾は「ふ号」と呼ばれ、放球した数はおよそ一万発。

 

材料は、和紙、こんにゃく芋・・・というから、日本的ですねぇ・・・。

この紙を科学溶液に浸し、弾力性をもたせたそうです。

 

風船が吊り下げているのは、高度維持装置、砂嚢(バラスト)、焼夷弾・爆弾。

風船爆弾の浮力の制約により、搭載兵器の重量は35kgまでに限定されていたため、15kgの炸裂爆弾または焼夷弾一発と、5kgの焼夷弾4発が搭載されたそうです。

 

 

13~16歳の女学生たちが、風船爆弾「ふ号」の気球紙製造に動員されました。

当初、予算2億円で約二万個を生産する計画であったそうです。

風船爆弾は第一科が研究開発していたものですが、第二科が気球に搭載する焼夷弾、第三科が気球の表皮に使用する和紙、第四科が気球の製造を行い、外部機関では第五技術研究所が気球航跡の標定、第八技術研究所が材料面の研究、その他陸軍気象部、陸軍軍医学校、中央気象台などなども協力した、一大プロジェクトでした。

 

 

日本から北米大陸までは約9,000キロメートルという長距離。さらに氷点下50度以下の低温。

偏西風の調査を行い、最適な風が吹くのは11月から翌3月までと判明。

年中放球するのではなく、打ち上げ期間限定の兵器だったのです。放球されたのは一万発で、アラスカ、カナダ、アメリカ、メキシコにまで到達。

アメリカ側で着弾が確認されたのは361発。おおよそ全体の1割程度の1,000発がアメリカ大陸に到達していたのでは・・・と推測されているそうです。

 

 

二昼夜かけて、日本からアメリカ西岸へ「ふ号」到達。

ドイツがインド洋でやった気象観測風船を飛ばす実験は、最長で40数分であったのに対し、日本軍が作った気球は二日半も飛ぶという驚異的な性能だったようです。(和紙&こんにゃくのりで作った紙は、気圧が上がると水素が少しずつ抜ける素材だった)

おまけに爆弾を投下すると、自爆用に搭載されていた別の爆弾が点火され、風船爆弾本体を焼却、証拠隠滅する仕組みになっていました。

 

風船爆弾によるアメリカ本土攻撃は、アメリカ国民に厭戦(えんせん)感をもたらし、戦争遂行を困難にさせることを目的にしていました。(登戸研究所が行っていた秘密戦とは、敵国内を混乱させることが目的)

昭和20年10月3日の朝日新聞の記事「風船爆弾の正体」には、「日本軍の風船爆弾はドゥリットル(米軍の長距離爆撃機B25)の東京空襲の復讐として計画されたものであり、この計画の狙いは日米両国民に対する心理的効果にあった」と記されているそうです。

 

風船爆弾は、爆弾や焼夷弾による山火事の発生、人間に対する直接攻撃の他、当初は牛疫ウィルスの散布で牛を大量に殺害したり、枯葉剤や穀物の病原菌をまいてアメリカを食糧難にしてやろうという計画もあったようです。

しかし当時国際的に使用が禁止されていた牛疫ウィルスを搭載してアメリカ本土へ攻撃した場合、アメリカからも生物兵器による報復が想定されたため、やめたそうです。(後にアメリカは容赦なく日本にプルトニウム型とウラン型の原子爆弾を落として、世界初の人体実験をしていきました。また、登戸研究所が研究していた枯葉剤の資料を手に入れたアメリカは、ベトナム戦争で使用。イラク戦争では劣化ウラン弾を初めて使用した)

 

敵国アメリカの心理を乱してやろうと日本陸軍が放った「ふ号兵器」に、アメリカ政府はどう対処したかというと、国民に知らせないようラジオ局や新聞社などに要請。これは、アメリカ建国以来初めての言論統制だったようです。

その結果、知らずに風船爆弾に近づいた一般市民6人が死亡する事件「ブライの悲劇」が発生したため、三週間後に風船爆弾の存在を国民に知らせ、「もしも見つけた場合、触ってはいけない」と注意喚起したそうです。

ちなみにこの亡くなった一家六人は、日本軍によるアメリカ本土攻撃の唯一の犠牲者となりました。

昭和20年2月18日に朝日新聞は、「大気球爆弾による損害は、死者数500名を突破した」とフェイクニュースを流しました。(実際は目撃者が500名だった)

 

 

風船爆弾の当時の映像と解説は、展示室のパソコンで見れます。とても分かりやすかったです。

 

 

風船爆弾「ふ号」を作った登戸研究所第一科は、もともと電波兵器を開発していました。

 

 

登戸研究所第一科は風船爆弾の「ふ号兵器」の他に、

  • 「く号兵器」・・・怪力(くわいりき)電波攻撃。電子レンジと同じ原理。
  • 「ち号兵器」・・・超短波によるレーダー
  • 「ね号兵器」・・・熱線を用いた射撃管制装置
  • 「う号兵器」・・・雷雲の雲(うん)からとった名前で、ガス兵器で雷雲を発生させ、落雷で敵の飛行機のエンジンを停止させ落とす
  • 「せ号兵器」・・・宣伝のことで、拡声器を搭載したトラックや、ビラの配布をする気球を製造

などを研究開発しており、極超短波や赤外線による研究は、現在もミサイル追跡装置に繋がっているようです。

 

この中で最も威力のある兵器とは何でしょうか?? あなたならどれを選びますか?

私はやはり「せ号(宣伝)兵器」が効果的だと思います。情報化社会に生きる私達は、特に気をつけねばなりません。

実は風船爆弾はもともと宣伝兵器で、満州からソ連に向けてスターリンの悪口を描いた風船を飛ばしていたのだそうです。それが後に「偏西風に乗せて、爆弾、焼夷弾、細菌(細菌は人道的に問題アリで採用されませんでした)を乗せた風船をアメリカに着弾させよう」という発想になったようです。

 

恐ろしい兵器というと言うまでもなく日本に二発も落とされた「原子爆弾」ですが、戦時中、日本も原子爆弾の開発をしていたようです。(→もう一つの「戦争裏面史」原爆開発競争 京都帝大「F研究」秘話 被爆地で新型爆弾の正体突き止めた皮肉

 

戦力を削るため、戦意喪失させるために、いろいろ開発していた日本軍ですが、一方のアメリカ軍はといいますと「人工地震」で日本を沈没させようとしていたようです。

雨のように爆弾を降らせて憎しみを煽るよりも、自然発生に見せかけた地震攻撃をする方が、心理的に戦意をそぐでしょうね。

この新聞記事から数十年経ちますが、地震兵器は完成したのでしょうか。

 

【聖書の暗号】の記事にも書きましたが、将来、日本は大地震に見舞われるそうですが、自然発生なのか人工地震攻撃なのかよくわからないでしょう。

 

 

 

 

次は、第三展示室へ。科学を応用した生物化学兵器やスパイ用品などを開発していた第二科を紹介しています。第二科は先にも書きましたが、この建物が所属していたところです。

第二科では、カバン型やライター型の隠しカメラ、火炎瓶や雨傘型の放火謀略兵器、缶詰型爆弾、特殊な方法で読める秘密インキ、万年筆型時限装置、ステッキ銃、耐水耐風マッチなどの他、牛疫ウィルス、毒キノコ、毒蛇の研究などをしていました。

 

 

この登戸研究所第二科で外せないのが、1948年(昭和23年)1月26日に、帝国銀行椎名町支店(東京都豊島区)で発生した集団毒殺強盗事件「帝銀(ていぎん)事件」です。

犯人は中年男性で、医学博士の名刺を差し出して「近くで集団赤痢が発生したので、進駐軍が消毒する前に予防薬を飲んでほしい」と告げました。まず自分が手慣れた様子で見本に飲んで見せ、次いで行員に飲ませました。この赤痢の予防薬と偽った毒薬を飲まされた行員と用務員一家は16名で、12名が死亡し、現金約16万円と1万円分の小切手が盗まれました。

犯行毒物は特殊な青酸化合物だと見なされ、登戸研究所が開発した「青酸ニトリール」ではないかと疑われ、登戸研究所の他、旧日本陸軍の特務機関や毒物兵器研究・開発機関が捜査対象になりました。

 

去年(2022)の12月、NHKで「戦後最大のミステリー「帝銀事件」の新たな真実に迫る衝撃のドキュメンタリー」が放送され、見た方も多いのではないでしょうか。手慣れた様子から、毒物に精通したプロの犯行だと旧日本陸軍関係者が捜査されていたのですが、GHQからの圧力でうやむやになっていき、結果、テンペラ画家の平沢貞通さんが逮捕されました。

【前回の記事】でチラッと書きましたが、画家の平沢さんが疑われてしまったことの一つに「事件直後に、被害総額とほぼ同額を偽名で預金していたが、その出所を明らかにできなかった」ことがあります。真実はどうかわからないのですが、画家の平沢さんは密かに春画を描いて大金を手に入れたけれども、恥ずかしくて言い出せず、そのままズルズルと犯人になってしまった(?)ようです。

平沢貞通元死刑囚は、無実を訴え続けて、95歳で獄死しました。

 

 

この事件は、ミステリー作家の松本清張さんが「小説 帝銀事件」に詳しく書かれているので、読んでみるのをおすすめします。

 

 

写真に写っている伴 繁雄(ばん しげお)さんは登戸研究所の技術少佐だった方で、敗戦後はアメリカ軍で10年働き、晩年に「陸軍登戸研究所の真実」を出版しました。敗戦日に研究資料は全て焼却処分にされてしまったので、研究員だった方が記憶を呼び起こし、本を書き記してくださったことに感謝。

 

伴 繁雄(ばん しげお)さんは、昭和63年にこの本の執筆を開始し、平成五年11月に脱稿、11月14日に急逝されました。伴さんは本の最終チェックもできませんでしたし、書店に並ぶのも見れませんでした。もう少し残された時間があれば、二冊目、三冊目・・・と戦争関連本を書いてくださったでしょうか。

 

 

また、「高校生が追う陸軍登戸研究所/教育史料出版会/赤穂高等学校平和ゼミナ-ル」もオススメです。登戸研究所は昭和20年に神奈川県川崎市から長野県駒ケ根市へ移転し、終戦日に解散となりました。この存在を地元の方も忘れていたのですが、1989年に赤穂高校平和ゼミナールのメンバーが文化祭の発表に向けて実態を掘り起こし、元陸軍登戸研究所の所員に取材をしました。

はじめは口を閉ざしていた元所員でしたが、「もう大人にはしゃべりたくない。君たち高校生にだけは話しておきたい」と、重い口を開き、語ってくれたのです。

取材をもとに書かれたこの本は登戸研究所の他に、中国で人体実験をしていたことで有名な「731部隊」、国立予防衛生研究所なども書かれており、とても読みやすいです。

 

 

 

 

731部隊(別名 石井機関)を知りたい方は、「悪魔の飽食 日本細菌戦部隊の恐怖の実像」がオススメです。

中国の捕虜を「マルタ」呼ばわりし、非人道的な生体実験でウィルス兵器を開発していた731部隊ですが、戦後、研究成果はアメリカ陸軍伝染病研究所(フォートデトリック基地)に引き渡され、石井四郎らもアメリカに連れていかれて研究を指導。今でもこの基地は、アメリカ軍の生物戦争計画で中心的な役割を果たしているそうです。(中国は新型コロナウィルスは武漢の研究所から漏れたのではなく、アメリカのフォートデトリック基地から漏れたのだから調査せよと訴えている)

 

 

今日紹介した「風船爆弾(ふ号兵器)」は牛痘ウィルスを仕込む計画がありましたが、この731部隊が研究していたペスト菌や赤痢菌を仕込む計画もあったようです。(元研究員は、「天皇陛下が細菌兵器は絶対に使うなと言った」と聞いたそう)

当時のアメリカ西部防衛司令部の参謀長だったW・H・ウィルバーは戦後発行された「リーダース・ダイジェスト」の中で、「この風船爆弾が平均1日100個の割合で放流され続け、少数の大型焼夷弾の代わりに数百個の小型焼夷弾をつけるか、人間や牛馬に病気をまき散らす細菌、農作物や植物を枯らす薬剤がしかけられていたならば、全米は恐るべき惨禍に見舞われたに違いない」と述べたそうです。

 

 

 

 

 

中央の映像コーナーは、係員さんに声をかけるとムービーを流してもらえます。

 

 

1944年(昭和19年)、戦況の悪化により、登戸研究所は神奈川県川崎市から長野県に疎開しました。

なぜ長野県に軍部が疎開したのかというと、アメリカ軍が九十九里浜から上陸してきた場合、関東平野は危ないため、一斉退却して山へ避難するのに適した土地が、長野県だったからなのだそうです。登戸研究所は上伊那地方に疎開し、大本営は松代(まつしろ)に疎開する予定でした。松代大本営跡は、後日、紹介します。

 

 

 

現地にあった、登戸研究所関連書籍のリスト。買わなくても図書館で借りれるものもあるので、検索してみてください。

 

 

 

大東亜戦争時のように、爆弾も降ってこないし召集令状も来ないので、「平和な時代に生きている」と私達は思いがちですが、日本は真の独立国ではなく、十分な食料すら生産できない骨抜き国家になっているし、死者多数の新型コロナワクチンは止められないし(ワクチン被害もバイオハザード)で、やはり日本はアメリカの「敗戦国」であり、今はグローバリストとの「戦時中」なんだなぁ・・・と思います。(次は台湾有事、食料危機、新ウィルスのパンデミック&ワクチン被害でしょうか)

 

→→鈴木宣弘さん 緊急5分メッセージ・・・薄い氷の上に、日本国民は生きている。世界で最初に飢え、最も死ぬのは日本人

 

 

ちょっと心理的にしんどいですが、登戸研究所、731部隊、アメリカのフォートデトリック基地、ウィルスとワクチンについて引用したい本があるので、次の記事へ続きます。

 

 

次の記事はこちら

前回、旧日本陸軍の研究所だった、神奈川県川崎市にある【登戸研究所資料館】を紹介しました。風船爆弾や、怪力光線、毒物の青酸ニトリール、中国の経済を混乱させようとして作った偽札など、秘密作戦に従事していた特殊な研究所です。   […]

 

 

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交通アクセス

小田急線生田駅から徒歩10分。

料金

無料。
見学日は、水、木、金、土曜日の10時から16時のみ。10名以下での見学は事前予約必要なし。

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