皇居(江戸城)の、裏鬼門を守る日枝神社と、鬼門を守る神田明神を書いたので、続けて江戸城本丸があったところ・・・皇居の東御苑を書きたいと思います。
私達が東御苑に訪れたのは2012年11月と2019年9月で、桜田門に訪れたのは2016年11月でした。
散策記
皇居東御苑は江戸城だったところで、無料で散策することが出来ます。
天皇陛下がお住まいなのは、東御苑から西側にある「吹上御所」で、江戸城の庭園があったところです。
徳川家康から始まった徳川幕府(江戸幕府)は、十五代将軍慶喜(よしのぶ)までの265年も続き、歴代将軍の居城だった「江戸城」は、明治元年に明治新政府軍に明け渡され、「東京城」と改称されました。
翌年に明治天皇がお移りになり「皇城」と称され、私達にお馴染みの「皇居」と呼ぶようになったのは昭和23年からです。
皇居の東地区(東御苑)は昭和43年から無料で一般公開されており、江戸城本丸、二の丸、三の丸の一部だったところです。
最寄り駅は大手町駅と東京駅で、私達は大手町駅から行きました。
(黒い四角で囲ったのは、皇居の最寄り駅)
大手町駅から一番近いのが大手門。 写真は大手門の1個手前の高麗門で、警察官がいました。
ここから先は、簡単な手荷物検査をしてから入ります。
こちらが、大手門。
旧江戸城の正門で、諸大名はこの門から登城しました。・・・といっても、火災や関東大震災、戦災で焼失されたため、後に再建されたものです。
大手門は、皇居東御苑に入園するお客さんが一番多い門だそうです。
次に通るのが受付。
プラスチックでできた入園票を一人一枚もらって進みます。この入園票は帰る時に返却するので、カバンやポケットなどに入れて無くさないようにしましょう。大手門の他、平川門、北桔梗門での受付・返却も可能です。
三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)の向かい側には、小さな売店があり皇室グッズやポストカードなどが買えます。
道心番所(どうしんばんしょ)。江戸時代の警備詰め所です。
尾張、紀伊、水戸の徳川御三家以外の大名はここでカゴから降りました。
本丸への入り口。
綺麗にカットされた切込み接ぎの石垣が美しいです。
内郭の石垣は殆どが江戸時代のままのものです。
この石たちは、どんな風景を見てきたんでしょうね~。
紙きれ一枚すら差し込めないほどの、奇麗な石組ですね。
本丸入り口のすぐ近くには、ひときわ大きな建物「百人番所」があります。
旧江戸城本丸御殿の最後の固めで、私大の検問所であったそうです。
甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の四組が昼夜交代で詰めました。
南北45mほどの長大な建物で、皇居東御苑の開園に際して修復されたのだそうです。
百人番所の次は、大番所。
ここは他の番所よりも格上だったのだそうです。こちらも東御苑開園に際して再現された建物です。
本丸入り口を通り過ぎると、開けた芝生の公園に出ます。(この写真は2012年のものです)
この一帯が、旧江戸城の中心となった本丸跡。
近くには本丸休憩所があり、皇居のガイドブックや写真集、皇室の御紋が入った牛革財布などの販売がありました。
私達は気づきませんでしたが、松の廊下跡碑もあるようです。
この辺りに、昔は大奥や将軍の御殿があったなんて想像すらできないくらい、サッパリとした広場になっています。
(目を瞑って想像してみる・・・)
ウィキペディア江戸城に、昔の写真がたくさん掲載されているのでご覧ください。
ちなみに、徳川幕府(江戸幕府)初代将軍の家康は、栃木県の日光市で「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」として祀られています。
天守閣跡(天守台)。
江戸城には過去、天守閣が3回作られました。
まず、徳川家康が造った慶長度天守。それを壊して2代将軍秀忠が造った元和度天守。さらにそれを壊して3代将軍家光が造った寛永度天守。
これらの天守は、江戸時代260年のうち最初の50年間そびえたっていましたが、明暦の大火で焼失してしまい、それ以降天守は作られなかったそうです。
総人口50万人のうち10万人が亡くなったといわれる大災害だったそうですよ・・・。
後に加賀藩によって台座が修復されましたが、天守閣が再建されることはなかったそうです。
時は流れ、現在、江戸城天守を再建する会が発足し、再建資金を募っています。
資金が集まったとしても、宮内庁の許可がおりるのでしょうか・・・?
天守台には坂があるので上れます。
こんな大きな石を積み上げるのですから、さぞかし大変だったでしょうね。
天守台の隣には、宮内庁楽部桃華楽堂。
帰りは汐見坂から帰りました。ここを下ると二の丸庭園があります。
けっこう急な坂で、息子が大喜び。
昔は新橋から皇居前広場近くまで日比谷入江が入り込んでいたため、ここから海が見えたそうですよ。
江戸幕府を開いた徳川家康は、天海僧正からのアドバイスを受け、陰陽五行説にある「四神相応」の考えを元にして、江戸城を中心に結界を張りました。
もともとは湿地帯であった江戸を埋め立て、お堀を「の」の字から外へ外へと拡大して、町づくりをしました。
石垣は難工事であり、各藩の力量が試されたのだそうです。
長く続いた徳川幕府(260年余り!)最後の将軍「徳川慶喜」について知りたい方は、渋沢栄一が「明治維新時における慶喜の真意を正しく後世に伝えたい」という熱いで25年もかけて完成させた徳川慶喜公伝をお読みください。全四巻です。
写真は皇居の正門。大手門や桔梗門からずっと西側にあります。
ここから先は自由に入れず、新年の一般参賀や、皇居参観で入れます。
「皇居」と言えば、三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」があるとされているところですね。
八咫鏡(やたのかがみ)は【伊勢神宮内宮】の御神体。
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ。草薙剣ともいう)は名古屋にある【熱田神宮(あつたじんぐう)】のご神体です。
正門石橋を横から見たところ。
写真では見えませんが、この奥には正門鉄橋もあり、二重橋と呼ばれているそうです。正門鉄橋は【皇居参観】で渡れます。
お堀。
皇居のお堀には埋蔵金が隠されている・・・とか何とかTVで放送していたような。
モヤ~~っと藻のようなものが生えていて、けっこう深そうだなぁと思いました。
皇居正門をさらに東へ行くと、桜田門があります。
写真は、桜田門の渡櫓門。
こちら、桜田門の高麗門を内側から見たところ。
桜田門は江戸時代のまま残っており、田安門、清水門と共に、国の重要文化財です。
「桜田門」・・・歴史的に有名ですよね。
安政7年(1860年)にこの近くで、水戸藩浪士らによる大老 井伊直弼(彦根城の主)の暗殺事件「桜田門外の変」が起きました。
井伊邸は、桜田門から西に500メートルほどの所にあったそうです。
さらに、昭和7年(1932年)には昭和天皇の暗殺未遂事件(桜田門事件)が起きました。
桜田門の正面には警視庁があり、お堀からは国会議事堂が良く見えました。
ちなみに、お堀の周りは、皇居ランナーだらけです。
1周が約5キロで信号機もないので走りやすいそうですよ。
いろいろ思い出しながら書いていると、また行きたくなってきました。
次は、国会議事堂と首相官邸について簡単に書きたいと思います。(外からの写真のみ)
前回、皇居東御苑(旧江戸城)の記事で、「桜田門から国会議事堂が見えた」と書いたので、国会議事堂と首相官邸を簡単に書こうと思います。 散策記 最寄り駅は国会議事堂前駅で、上のマップのように皇居のすぐ近くです。 →→【皇居[…]
2019年11月14日から15日に、東御苑で大嘗祭が行われました
その理由は、大嘗宮(だいじょうきゅう)の建設のため。
大嘗宮完成イメージ。
大嘗宮の模型。左右対称の美しいお宮です。
2019年11月14日から15日、ここで新天皇陛下(徳仁天皇。第126代、令和の天皇陛下)が、大嘗祭(だいじょうさい)を執り行われました。
天皇弥栄(すめらぎいやさか)!
(この見学記は2012年と、2019年です)
関連記事
→→【皇居見学】 皇居見学申し込み、見学当日の服装、お土産など
●天海が関わった神社仏閣の記事です。
→日枝神社の記事はこちら (千代田区)・・・江戸城の裏鬼門(南西)を守る
→神田明神の記事はこちら(千代田区)・・・江戸城の鬼門(北東)を守る。江戸の総鎮守。
→増上寺と、徳川将軍霊廟の記事はこちら(東京タワーの隣)
→寛永寺・清水観音堂の記事はこちら(上野。天海が創建しました)
→上野東照宮(上野。こちらも天海が創建しました。東照宮のご祭神は江戸幕府を開いた徳川家康です。)
→金龍山浅草寺・・・都内で最古の寺。江戸幕府の祈願所。
●徳川御三家
紀州・・・和歌山城の記事はこちら
・尾張・・・名古屋城の記事はこちら
・水戸・・・未訪問。
●京都から東京へ住まいを移した明治天皇は、明治神宮に祀られています。
→明治神宮の記事はこちら
●歴代徳川将軍は、日光東照宮、上野の寛永寺、芝の増上寺に葬られています。
→日光東照宮の記事はこちら・・・世界遺産です。初代江戸幕府の家康が御祭神。(栃木県)
→増上寺と、徳川将軍霊廟の記事はこちら(東京タワーの隣)
→上野寛永寺・・・本堂は未訪問。同じ境内にある諸堂の寛永寺・清水観音堂の記事はこちら(上野公園内)
交通アクセス
大手町駅徒歩5分
竹橋駅より徒歩5分
電車の乗り換えはヤフー路線などでお調べください。
開苑は午前9時から。閉苑は季節により異なるのでHPで確認してください。(閉まるのが早いので、遅くても14~15時には入るほうが良いです)
入苑無料です。
→東御苑 開園時間と注意事項について
近くの宿泊施設
ホテルモントレ半蔵門。