今日は、神奈川県鎌倉市にある「源頼朝の墓」を紹介します。
参拝記
鎌倉幕府初代将軍である源頼朝の墓があるのは、神奈川県鎌倉市。
最寄り駅はJR鎌倉駅で、鎌倉幕府の中心地であった鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の少し西にあります。
鶴岡八幡宮から頼朝の墓へは、徒歩で10分くらいなので、併せて行くのをおススメします。
頼朝の墓の目印になるのが、「よりとも児童遊園」と、「白旗神社」。
頼朝の墓周辺に駐車場はありませんが、よりとも児童遊園には自転車を止めれそうなスペースがありました。
よりとも児童遊園には地元の小学生が書いた説明ボードがありました。
頼朝の墓の手前にある白旗神社。
源頼朝の墓の説明書き。
源頼朝は1180年に平家打倒のため挙兵し、鎌倉を本拠として1185年に平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開いて武家政治の基礎を築きました。
1199年に53歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪(しげひで)が整備したものとされます。
白旗神社の奥にある53段の階段を上る。(頼朝が亡くなったのは53歳)
清和源氏(第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族)の家紋であるササリンドウ。
頼朝は、清和源氏の一流である河内源氏の源義朝の三男。
こちらが、法華堂跡地にある、源頼朝の墓。
もともとここには「持仏堂」という御堂があり、頼朝が毎日お参りしていたそうです。頼朝の死後、持仏堂に頼朝は葬られ、法華堂と呼ばれるようになったそうです。
しかし何百年と経つ間に御堂が朽ち果ててしまい、江戸時代に島津藩主・島津重豪(しげひで)が整備。
今あるのは、お墓ではなく「供養塔」なのだそうです。
源頼朝は愛知県名古屋市の【熱田神宮(あつたじんぐう)】の神宮大神宮の別邸で、源義朝の三男として生まれました。幼名は鬼武者(強そうですね!)。
父親の源義朝は平清盛らと共に、後白河天皇側に雇われ、崇徳上皇と戦いました(保元の乱)。(崇徳上皇は後に日本最大の怨霊となります→→【「怨霊になった天皇」を読んだ】の記事はこちら)
義朝は、当時野蛮とされていた夜襲と火攻めを提案し、後白河天皇側を勝利に導きます。しかし3年後の「平治の乱」で平清盛に敗れ、朝敵として殺されてしまいます。この時、息子の頼朝は平家方に束縛されたのですが、13歳という若さだったので、死刑になるところを、清盛の継母・池禅尼の嘆願などにより助けられました。頼朝は伊豆国に流刑されて、30歳くらいの時に伊豆の豪族・北条時政の長女である政子と婚姻。
33歳の時に、後白河法皇の皇子である以仁王が平家追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発したため挙兵、後に弟の義経も合流。
1184年に一ノ谷の戦いに勝利、翌年に壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、翌年に鎌倉幕府が成立。
・・・が、日本一の大天狗である後白河法皇の策略により、弟の義経と仲違いをすることになり、頼朝は義経追放・討伐令を出し、義経は弁慶と共に各地を逃亡し、奥州平泉で死亡(死なずに北海道に逃げた説もある→→【義経公園、東神楽神社】)。
1192年3月に後白河法皇が崩御。同年7月12日に後鳥羽天皇によって頼朝は征夷大将軍に任ぜられました。
1198年12月27日、頼朝は相模川で催された橋供養からの帰路に落馬し、翌年1月11日に出家、二日後の13日に死去。享年53(満51歳没)でした。
【小町通りと、鶴岡八幡宮】の記事にも書きましたが、頼朝の死は謎に満ちており、暗殺されたのではないか・・・と推測する方も多いようです。
現地の看板。
頼朝の死因について「北条九代記」に次のように書いてあります。頼朝が1198年の12月に相模川にかけた新しい橋の渡り初めに行き、その帰り道、稲村ケ崎の辺りまで来た時に馬から落ちたと書いてあります。
頼朝の妻、政子の妹が無くなり、その夫が妻の供養のために平塚と茅ヶ崎の間の相模川に新しく橋を架け替えたので、頼朝もそれを見に行ったのです。今の辻堂あたり、八的原というところに差し掛かった時、海の方から幽霊が出てきました。頼朝が殺した弟、義経や叔父の行家が怨霊となって出てきたのでしょうか。頼朝は睨み返し、その時は何もなく済みました。その後、稲村ケ崎まで来た時、また幽霊があらわれました。今度は平家の幽霊。まだ6歳4カ月だったのに海に入って亡くなった平家の安徳天皇をはじめ、平家の者たちが次々と現れました。頼朝は何度も幽霊にあい、とうとうくらっとして馬から落ちたのです。お付きのものが頼朝を家まで運び、それから二週間ぐらいして亡くなりました。落ちたのは12月27日か28日あたりで、お正月を迎えられてよかったと思ったのですが、1月13日に亡くなってしまいました。
ということで、頼朝が亡くなったのは馬から落ちたせいなのか、どういう状況で亡くなったのか詳しく書いたものが一つもないためわかりません。しかし1199年1月11日に頼朝は髪をそって出家し(昔の人は無くなる前に髪を剃りお寺に入った)、13日に53歳で亡くなったということだけはわかっています。
つまり、頼朝は馬から落ちてその場で亡くなったのではないのです。
先日、TV番組で「頼朝の死因は暗殺?」というものをしていました。頼朝の死後、長男である頼家(当時18歳)が二代目将軍となりましたが、頼家には比企氏が後ろ盾についており、それを嫌がった北条時政(政子の父親、頼朝の舅)が比企氏を滅ぼして頼家を修善寺に追放し、入浴中に暗殺。
三代目の将軍についたのは、北条時政の息のかかった実朝(さねとも)でした。実朝は12歳で三代目の将軍となりましたが、北条家が実権を握っていたため、お飾りの将軍であったようです。しかし成長するにつれリーダーシップを発揮。
しかし、亡き兄・頼家の息子(つまり甥っ子)に、「父の仇」だとして【鶴岡八幡宮】で暗殺されてしまいました。暗殺を果たした頼家の息子も殺され、これにより頼朝の血筋は途絶え、鎌倉幕府の実権は政子の実家である北条家に完全に移ったのです。そのことから、頼朝暗殺命令を下したのは政子の父親の北条時政ではないか・・・?と、TV番組で推測していました。
石碑にあるように、法華堂跡には源頼朝の他、北条義時の墓もあります。
源頼朝の墓の階段を降りて、左手側にある細道を進むと写真の階段前に出ます。
階段を上ると、法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の石碑。
一辺8.48mの御堂(法華堂)があったことが発掘から分かったそうです。
法華堂跡の奥には、三浦氏が供養されているやぐら。
奥にはさらに階段があり、上ると、薩摩藩・長州藩ゆかりの墓が並びます。
- 頼朝を補佐し幕府の土台を築いた大江広元
- その四男の長州毛利氏の祖である毛利氏の祖・毛利季光
- 頼朝にゆかりのある薩摩島津氏の祖・島津忠久
の墓が並び、江戸後期に薩摩藩・長州藩により整備されたのだそうです。
鎌倉幕府初代将軍である源頼朝の墓は、【小町通りと、鶴岡八幡宮】から徒歩で行けるので、訪れてみてはいかがでしょうか。
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