【海金剛、日米修交記念館】 アメリカが初めて来航したのは浦賀ではなく、和歌山なのだ!

今日で、和歌山県串本(くしもと)町の観光紹介も終わりです。

今日紹介するのは、海金剛(うみこんごう)、日米修交記念館の二つです。

見学記

本州最南端である、和歌山県串本(くしもと)町。

串本大橋を通っていける「紀伊大島(きいおおしま)」の東端に、日米修交記念館はあります。

前に紹介した【トルコ記念館】【樫野埼灯台】の駐車場から、5分くらい車を走らせると到着です。

日米修交記念館は、トルコ記念館と樫野崎灯台旧官舎との、お得なセット券販売があります。

トルコ記念館からは少し離れているので、車で移動した方がラクです。

トルコ記念館も、海金剛も、駐車場は無料です。

 

 

 

日米修交記念館。

・・・の前に、小雨がやんでいるうちに景色を見に行こう! ということで、先に海金剛へ行きました。

 

 

 

日米修交記念館の横に、海金剛への道があり、木の枝が覆いかぶさってトンネルのようになっています。

トトロの木のトンネルみたいやー♪

 

 

こちら海金剛(うみこんごう)。

めっちゃ三角!

ピラミッドのような三角の岩が見られる景勝地で、「21世紀に残したい日本の自然百選」に選ばれており、奈良・三重・和歌山にまたがる広大な吉野熊野国立公園に含まれています。

 

朝鮮半島の名勝金剛山から名前をとったそうです。金剛山(クムガンサン)は北朝鮮と韓国の境にあり、北朝鮮領になるようです。 ギザギザした山が連なる綺麗なところなので、興味のある方は「朝鮮 金剛山」で画像検索してください。(あまり似ていないかも)

 

それにしても、みごとな三角ですね~~~。

宇宙のエネルギーを受信していそう(笑)。

 

 

 

再び日米修交記念館。入場料は大人250円。小学生以下は120円かかります。トルコ記念館とのお得なセット券がオススメ。

 

 

展示はワンフロアで、ほぼパネル展示のため、15分~30分ほどで見られます。

写真は、アメリカボストン船籍「レイディ・ワシントン号」の模型。

もう一隻のニューヨーク船籍「グレイス号」と共に、中国からの帰路、ラッコの毛皮を交易しようと和歌山沖にやってきました。

1791年にやってきたようで、浦賀にペリーがやってきたのが1853年だから、黒船の62年前に来ていたのです。

 

日本がアメリカの旗を見たのは、これが初めてだったようです。

 

アメリカの建国(イギリスから独立)は1776年なので、その15年後に来たことになりますね。

 

 

浦賀にやってきたペリー率いる黒船は、アメリカ合衆国大統領国書を携えた海軍艦でしたが、その62年前に紀伊大島にやってきたのは冒険商人の船でした。

→→【浦賀とペリー】の記事はこちら・・・神奈川県横須賀市。

 

 

 

アメリカの船が、初めて日本に来たのは和歌山だった!

 

・・・しかし、なぜ有名じゃないのかというと、とっても地味だっんですねぇ。

 

以下、ちょっと説明します。

日本は徳川幕府の治世のもと、150年以上にわたって鎖国をしていました。

神秘の国日本・・・人口がそれなりに多いし、金・銀もけっこうあるし(ガリバー旅行記で、日本は金がうなる国と書かれている)、日本の品物からは高度な芸術がうかがえる・・・、これはきっと良い商売相手になるに違いない!

と、目をつけられていたところ、長崎出島で働いていた西洋人医師が、
「アメリカ北西海岸で獲れたラッコの毛皮を一枚日本に持っていったら、500ドル以上で売れるぞ」
と語ったと、アメリカの新聞に掲載されました。

中国では120ドルで売れるものが、日本では500ドル以上で売れるだって!?

水夫の年収は良くて60ドル。

中国で毛皮1枚売れたら2年分の収入、それが日本で1枚売れたら8年分の収入にもなるじゃないか~!

 

良い商売でっせ!  o(・∇・o)(o・∇・)o

 

・・・けれども、無理に進入したら幕府の人間に捕まり、牢に閉じ込められ、船も没収されてしまう・・・。

さらに、商売敵のイギリス船(東インド会社)との争いもあるし、上手くいく保障なんてどこにもない・・・。

 

しかし、もしも売れたら、なんてうまい商売!

 

一枚売れたら、水夫の年収「8年分」が手に入る!

 

なんとしてでもイギリスを出し抜いて、日本へ行き、有利に商売するぞー!

 

 

(。・ω・。)ゞエイ (。・ω・。)ゞエイ (`・ω・´)ノオゥ!!

 

 

冒険商人達はラッコの毛皮を積んでアメリカ→マカオ→琉球→和歌山の紀伊大島へと到着。

(この道中いろいろあったけれど、書くと長くなるので省略)

 

4月29日の早朝、串本の人たちは、初めてアメリカの2隻の船と国旗、○○系アメリカ人を崖の上から見た。

 

 

(;・_・)・_・)・_・)・_・)・_・)・_・)・_・)

……何だあれは。

 

 

「いかなる異国船も日本に来航してはならない。上陸もさせてはいけない」

の決まりに従い、近隣の村長や和歌山藩主(紀州徳川家)に知らせる手はずを整える村民。

 

一方、船の上のアメリカ人は、丈の短いズボンとぞうりを履き、雨よけの蓑と笠をかぶった男達が、短時間のうちにたくさんボートに乗って、船に近づいてきたので、ちょっと緊張していた・・・と思う。

 

この時のことを、アメリカ側は航海日誌で、

「男達は身振り手振りで、海へ戻れと我々に伝えようとしている。だれも乗船してこない。どうも我々を恐れているようだ」

と記している。

 

 

串本の人たちは、一生懸命身振り手振りで海へ戻れと伝えましたが、はるばる商売にやってきた冒険商人達は簡単には帰らない。(だって、一枚売れたら年収8年分! 10枚売れたら、一生遊んで暮らせる)

 

 

謎の異国人が動かないので、串本の人達はあきらめ、いったん引き下がる・・・。

 

 

串本の男達が消えたので、冒険商人はボートを海におろし、浜辺へ降りた。

日本の地に、初めて○○系アメリカ人が降り立った!

 

 

串本の人達は、どうするどうするの大騒ぎ!

 

 

!!!(;゚ロ゚)(゚o゚;) (;゚ロ゚)(゚o゚;) (;゚ロ゚)(゚o゚;) (;゚ロ゚)!!!!

 

「いかなる異国船も日本に来航してはならない。上陸もさせてはいけない

 

 

 

この時の様子は、

「先住民達が山の頂上からボートと仲間を見つめている。近づく様子はない。自分達を守るために、長いやりか何かを持っているように見える」

と、アメリカ側の日誌に書かれている。

 

 

冒険商人達は、とりあえずすぐに船に戻った。

争いになると、商売になりませんからね!

気持ちよく商売しなくてはっ!

 

 

その夜、串本の人達は重苦しい会議を開く。

(異国人の上陸は禁じられているのに、あいつら上がってきたよ! どうする!? 下手すると、自分達が幕府に罰せられてしまう)

・・・と心配しただろうと思う。

 

 

 

翌日は雨。

アメリカ人たちは水の補給のために、またしても上陸。

小さな滝からホースを伸ばして水を樽につめた。

さらに数人が森に分け入り、燃料のために松の木を切った。

日本側は、何とかコミュニケーションをとろうとアメリカ人に声をかける。

オランダ語はお互いに少しわかるようで、冒険商人達は「ここはニッポンか」とたずねかえしたように見えたらしい。

 

 

アメリカ側が勝手に松の木を切るので、「木を切るな」と咎めたら、足元にバキュンと鉄砲を射掛けられた!

 

アブナイ! ∑(゚∇゚|||)

 

むむむ・・・、ちょっとお互いに気分が悪かっただろう・・・と思う。

 

 

 

しかしアメリカ商船側は、はるばる持ってきたラッコの毛皮を、1枚あたり水夫の年収8年分で売らなくてはならないっ!

 

距離をつめたいアメリカ冒険商人達は、中国人船員に頼んで、中国語の手紙を書いて日本人に渡した。

 

 

中国語の手紙を訳すと、

「本船は紅毛の船で、アメリカ合衆国から来た。積荷は銅と鉄である。50名が乗り組んで、中国を発って皮草国に向かっていた。貴国を通過する意図はなかった。嵐にあって漂着したのである。3日から5日間を越えて滞在することはない。風が悪ければ仕方ないが、好ましい風になればすぐに立ち去る。本船は100名が乗り組むことが出来る。銅と鉄以外積んでいない。船長の名は堅徳力(ケンドリック)である」

となるようです。

 

 

こら、堅徳力(ケンドリック)よ、ウソつくな!

 

 

・・・と叱りたくなりますが、異国人の正体と目的がわかったので、日本側は一安心。

嵐が止むと、出て行ってくれるらしい。

 

 

ホッ・・・(´ ▽`)

 

 

 

素性がわかったところで、串本の人達は、嵐にあって漂着した(?)アメリカ人に、薪を少々と米を数袋をプレゼント。

(串本の人達は、後に遭難した、エルトゥールル号のオスマントルコ人達にも親切だった→【トルコ記念館の記事はこちら】

 

冒険商人達は串本の人達に「受け入れてもらえた」と思い、少し探検してみることにしました。

ボートで【橋杭岩(はしぐいいわ)】の近くまで行き、自分達が寄った陸地は実は島だったとわかる。←紀伊大島。

 

 

ちょっとリラックスして探検した5月2日の夜、グレイス号とケンドリック号は立て続けに空砲を発射!

 

ドン! ドン! ドン! (× 10回)

 

 

西洋の船乗りにとっては、敬意と栄誉をあらわす伝統的な行為(礼砲)であったけれども、日本人にその習慣はない

30発に及ぶ空砲は、串本の人達にはどのように思えただろうか・・・。

 

 

この日の交流と、アメリカ側の冒険・夜の騒ぎは、村長達の気分を悪くした。

翌朝、住民達は商船側にメッセージを伝える。

「もう物の交換や贈答は許さない。もしそんなことをしたら命の補償はない。海へ戻りなさい」

 

 

・・・この時、異国船来航のしらせを受けた、和歌山城のサムライ一団が、現場に向かっていた!

 

 

命の危険を感じたケンドリックらは、5月4日の朝、出航することを決意。

 

肝心のラッコの毛皮は、全く売れない!

 

日本では、「毛皮を着ることは野蛮である」とみなされるらしく、日本で毛皮が高く売れるだなんて儲け話は嘘っぱち!

 

 

とりあえずサムライに捕まらず、無事に帰らなくてはならない。

 

ε=ε=┏(.’皿`)┛イソガネバ!

 

 

しかし、船を出すものの、荒天で戻され、断念。
翌日も、東の風が強くて戻されてしまう。

 

 

急がなくては、和歌山城を出発したサムライ一団がやってくるー!

 

堅徳力(ケンドリック)達は、無事にアメリカへ帰れるのだろうか。

 

 

 

天気はそのまま回復せず、6日の金曜日、北東の暴風雨が襲う!

しかも船がちょっと壊れた!

 

 

和歌山城のサムライ一団も、荒天で足止めを食らう。

 

 

 

8日・日曜日、天気が回復したので、午前5時にケンドリック達は外洋にむけ出航。

串本の人達も小船に乗り、アメリカ商船のあとを付いていった。

別れの挨拶だったのか、それとも「早く行け」と追い出そうとしていたのか・・・。

 

 

一方、和歌山城のサムライ一団は、ケンドリックたちが港を離れてから二日後に到着。

4日間滞在して帰ったそうです。

 

 

 

 

串本の住民で、罪に問われた人があったとの記録は無いそうです。

→→和歌山城の記事はこちら・・・和歌山県和歌山市。徳川御三家の一つ、紀州徳川家の居城。(和歌山城は国宝だったけれど、アメリカとの戦争で焼け落ちた・・・)

 

 

この後も、日本側は西洋諸国との接触を拒否し続けるのですが、歴史資料で見る限り、日本の港で囚われの身になることなく10日間に渡って滞在し、地元民と交流した船乗りは無いのだそうです。

 

 

ケンドリックのその後ですが、ハワイにおけるアメリカの影響力を増すことに成功したものの、ホノルルでイギリス商船から発射された砲弾に当たって死にました。

 

彼は、自由貿易が王制を打破し、世界を変えるという考えを強く信じていたのだそうです。(今はまさにグローバルな時代ですが、どうでしょう? 世界中の人々は平和で豊かになったでしょうか)

 

 

 

(彼について書かれた本があります)

 

 

ケンドリック達が商売にやってきた62年後、浦賀に黒船がやってきます。

目的は、62年前と変わらず、やっぱり商売目的。

黒船来航 ウィキペディアに詳しく載っているのでご覧ください。

産業革命により、欧米の工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになり、その潤滑油やランプの灯火として、主にマッコウクジラの鯨油を使用。その捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保として、開国を迫った。

ペリーの計画
「中国人に対したのと同様に、日本人に対しても恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」

 

 

白人社会は金儲けがしたくて市場拡大を急ぎ、熾烈な植民地獲得競争となっていきました。

 

アジアで完全に独立を保っていたのは日本、朝鮮半島、タイだけですからね・・・。

 

日本は植民地化されなかったけれども不平等条約を結ばれ、苦しみました。

 

これが後のオスマントルコ帝国との交流につながり、エルトゥールル号の遭難事件へと繋がります。

→→トルコ記念館の記事はこちら(エルトゥールル号遭難事件を伝える資料館)

 

 

金儲け・・・。

 

なんというか、「我さえ良ければ」の利己心をなんとかしないと、争いは未来永劫に無くならないのでは・・・と思いました。

 

現在のアメリカと日本の交流が公平であるかというと、「?」マークが付くのが、なんとも複雑な心境ですね・・・。

 

やっぱり、お互いを思いやるバランスは大事なのだと思います。

 

 

「日本とアメリカの人々の友情がますます深まることを信じて」・・・、そうであると良いですね。

 

 

 

 

さてさて、次は、太地町のクジラの博物館を取り上げます。

太地町は、古式捕鯨発祥の地です。

映画「ザ・コーヴ」や、シーシェパードとの争いで、知っている方も多いのではないでしょうか。

 

次の記事はこちら

今日は、和歌山県太地町の「クジラの博物館」を紹介します ここは見所がいくつかあるので、2つの記事に分けて紹介したいと思います。 レジャー記 公共交通機関で行く場合、JR太地駅から太地町営じゅんかんバスに乗車、「くじら館前」[…]

 

 

(この旅行記は2017年です)

 

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本州最南端の町、串本町の観光記事です。

1)串本海中公園・・・本州最南端の水族館。水族館と海中展望塔があります。世界最北のテーブル珊瑚群生地。
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1)トルコ記念館・・・エルトゥールル号遭難事故の資料館。日本とトルコ友好の架け橋。
2)トルコ軍艦遭難慰霊碑、樫野埼灯台と旧官舎

 

 

浦賀に来た黒船。

→→【浦賀観光① 走水低砲台跡(旗山崎公園)】 観音崎砲台跡とセットで訪れて! 東京湾の湾口部を守る砲台群で、日本最古の近代要塞

交通アクセス

JR紀勢本線串本駅よりバス35分 串本町コミュニティーバス大島・出雲線「樫野口」下車。
電車の乗り換えはヤフー路線などでお調べください。
車で行く場合、無料駐車場があります。

料金について

入場料:250円(小学生以下120円)
年中無休・09:00~17:00
トルコ記念館、樫野崎灯台旧官舎とのセット券があります。

近くの宿泊施設

串本ロイヤルホテル。橋杭岩から昇る朝日が見れます。プール横にトルコ政府から送られたエルトゥールル号の銅像があります。

お得で便利な、旅の予約サイト

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