久しぶりの更新です。
淡路島で暗殺された疑いのある淳仁天皇が、実は殺されずに琵琶湖の北の隠里「菅浦」に逃れて、そこで住んだ・・・と、前々回記事にしましたが、淳仁(じゅんにん)天皇が菅浦に逃げず淡路島で暗殺されていたとしたら、崇徳(すとく)天皇のように怨霊にならなかったのだろうかと気になり、ここ数日、明治天皇の玄孫である竹田恒泰さんが書いた「怨霊になった天皇」を読んでいました。
内容を詳しくここに書くと、著作権の問題や、これから読む方の楽しみを削ぐので、あまり書きませんが、この本はとても面白く、過去の出来事から現代を生きる私達の生き方にまで通じる、大変良い本でした。
「怨霊、怨霊、怨霊が~~! 恐ろしやー!」という本ではありませんので、興味を持った方はぜひ読んでください。
では、この本を読んで学んだこと、面白かったことを少しだけ紹介します。
まず、「天皇は幸せな人生を謳歌している」と思っている人が多いと思うのですが、日本の皇紀は2600年以上続いており、今上天皇(令和の天皇陛下)で126代です。
皇位を継いだ天皇でそれだけの人がおり、皇位継承できなかった方もたくさんいらっしゃいます。
公式に記録されているものでは、自殺が二例(弘文天皇、安徳天皇)、暗殺が二例(安康天皇、崇峻天皇)、事故死が一例(四条天皇)、特殊な例として神の怒りに触れて殺された例や、神の呪いによって殺された例(仲哀天皇、斉明天皇)もあり、島流し、幽閉、追放などの憂き目にあった天皇は多数いるようです。
私が気になっていた、【奥琵琶湖 菅浦の湖岸集落散策】 淡路廃帝・淳仁天皇の御陵と、琵琶湖の古代遺跡の記事で書いた淳仁天皇は、淡路島に追放され、若くして亡くなられた(暗殺説もある)天皇ですが、時代が古いためか、淳仁天皇が死んだ後に、対立していた関係者が立て続けに呪い殺されたとする記述もおそらくないようなので、菅浦に逃げ延びて静かな余生を過ごされたのでは・・・・と、私はそのように思いたいです。(事実はどうなのかわかりませんが)
竹田さんの著書に話を戻しますが、驚いたのが南朝が北朝に対して、「南天北闕天皇弥栄(なんてんほっけつすめらぎいやさか)」と呪詛をかけていたということ。
この意味は「南天は南朝が天下を取る。北闕は北朝が欠ける」となり、昭和期から現代にいたるまで、北朝方の皇室に女子が生まれるように、南朝方が呪いをかけていたのだそうです。しかし、日本国民の大多数が男児の誕生を熱望し、悠仁親王殿下がお生まれになったので、「国民の祈りの力」が呪詛(呪い)よりも上回ったのではないか・・・と、書籍で述べてらっしゃいます。
「わだかまりが完全に解消した時に、日本は国際社会で本当の力を発揮することができる」と、明治天皇の玄孫さんが述べておられるので、興味のある方は調べてみてはいかがでしょうか。
さてさて、皇室の危機は幾度かあり、南北朝問題(南と北に分かれて二人同時に即位した)も大変な異常事態であったようですが、今回は「怨霊になった天皇」の話ですので、そちらへ移ります。(前置きが長くてゴメンネ! 南北朝の話は【南朝黒木御所跡と供養塔】の記事(奈良県天川村)でご覧ください。簡単に説明しました)
本で多くふれられているのは、「崇徳(すとく)天皇」。
詳しいことは、崇徳天皇 ウィキペディアをご覧いただきたいのですが、ざっくり書くと、崇徳天皇は鳥羽天皇の子供とされていたけれども、実際には白河天皇(鳥羽天皇のおじいちゃん!)の子供だったのではないか・・・と疑われた方です。
今のように遺伝子検査の無い時代なので、本当のところどうだったのかわかりませんが、竹田さんの著書には白河天皇と、母の藤原璋子とが一緒に過ごした時期の表が書かれてあり、「あー、こりゃ確かに怪しいなぁ・・・」と、私の中では「崇徳天皇は白河天皇の子供説」は納得のいくものでした。
崇徳天皇は、父親である鳥羽天皇からは「あれは叔父子よ(崇徳は祖父の息子であり、私にとっては叔父であり、子供ではない)」と冷たくされていたようです。
(ウィキペディアから借りた崇徳天皇の画)
この時代、天皇本人が実権を握っていたのではなく、その父や祖父が上皇・法皇として院政をしていた時期でしたので、崇徳天皇は実権が無い状態で、祖父である白河上皇(本当は父親?)が権力を持っていました。
これに腹を立てたのが、父親(?)である鳥羽上皇。
鳥羽上皇は、白河上皇と崇徳天皇を嫌います。
そんなうっぷんだらけの鳥羽上皇にもチャンス到来、白河上皇が亡くなりました。
さらに崇徳天皇を産んだ女性とは別の女性との間に、男児(後の近衛天皇)を授かりました。今度は自分の子供だと確信したでしょうね。
鳥羽上皇が、崇徳天皇と、近衛天皇と、どちらを大切にしたか・・・、そりゃ近衛天皇でしょう。
崇徳天皇は鳥羽上皇から疎まれて外され、鳥羽上皇と近衛天皇の「実の親子組」が実権を握りますが、近衛天皇は17歳で亡くなってしまったことにより、皇位継承問題勃発。
次は崇徳天皇の子供が継ぐはずが、鳥羽上皇がこれを嫌って、崇徳天皇の異母弟を後白河天皇として即位させます。(気の毒!)
権力を握っていた鳥羽上皇が54歳で崩御したことで、崇徳 対 後白河の、異母兄弟争い勃発。源氏と平氏を雇い、保元の乱勃発。(崇徳のクーデターのように見えるが、実は後白河により仕組まれた戦いだった。この保元の乱から武士の台頭が始まった)
後白河天皇軍には平清盛率いる300騎、源義朝率いる200騎の他、数百騎が雇われ、対する崇徳上皇側には清盛の叔父、義朝の父と弟が雇われていました。
後白河側についた源義朝(源頼朝の父)は、当時野蛮とされていた夜襲と放火を提案し、信西(しんぜい)が許可。これにより崇徳上皇は敗北。
淳仁天皇から400年ぶりに島流しにされます。
淳仁天皇は淡路島へ流されましたが(奥琵琶湖の菅浦では淡路ではなく菅浦に流されたと伝えられている)、崇徳上皇は四国の讃岐に流されました。
崇徳上皇は、讃岐で五部大乗経と言われるお経を心を込めて書き、「京の寺に収めて欲しい」と朝廷に送りました。このころのお経は飾り文字などを使った芸術品のようなものだったそうで、崇徳上皇が記したお経も、労力、時間、心を込めて記したものだと思われます。
しかし、そのお経も、「これに呪いでもかけているんじゃないか」と疑いをかけられ、返されます。
この辺りは、ぜひ竹田さんの著書「怨霊になった天皇 」をお読みください。
「これは、崇徳上皇が恨むのも無理はないだろう」と思わせるようなエピソードが書かれています。
讃岐に配流されて8年後、崇徳院は後白河法皇を恨んで憤死し、祟りをもたらすわけですが、この辺りも本をぜひ読んでください。
かなり激しいです!
(ちなみに、崇徳院が恨みに恨んだ、異母弟の後白河法皇は、後に源頼朝と義経の仲を引き裂き、頼朝から「日本一の大天狗」と言われた人です。やり手の怖い人だったのかも)
しかし、竹田さんは「怨霊というのは人が認識してこそ、初めて怨霊となる。怨霊は生者が作り出す」といった内容を書いておられます。
それは祟り神となった崇徳院も「自分を怨霊というてくれるな」と思われているようで、後に「吉うた」の女将の元に現れ、「死すとも恨み残してはならぬぞよ」と告げたそうです。
この辺りも感動的なので、ぜひ本を読んでいただきたいです。
長い年月が経ち、崇徳院は怨霊ではなく、良い神様になっておられるそうです。
人を恨んで死んだらいけない
そもそも人を恨んではいけない
それが崇徳院からのメッセージ。
今を生きる私たちは、このメッセージを重く受け止めるべきでしょう。
崇徳天皇は大変和歌を作るのが上手い方だったようで、有名なのがこの歌。
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思う」
川の流れが岩に分かたれても、また合流して一つの流れになるように、今はわかれていてもまた一つになれる。
竹田さんは著書で、「目に見えない存在」に対して恐れを抱くことは、「陰で何をしても見つかれなければいい」「嘘をついてもばれなければいい」という考えに対して、「おてんとうさまが見ている」や、「人を許しなさい」との教訓につながるとおっしゃっています。
(「怨霊になった天皇」より一部抜粋)
しかし、私たちの現代社会にはそれら「見えない存在、かしこまるべき存在」が、拝金主義の横行により見いだせなくなっており、目に見えない鬼や天狗が駆逐された結果、現代人そのものが鬼となってしまった。
弱肉強食の資本主義社会である今、この仕組みの中では必ず勝者と敗者が生まれる。
常に敗者を出し続ける仕組みは本来日本の風土になじまない。
日本人の心がすさんだのは、個人がお金を追いかけた結果である。
日本の国の「許す」文化は世界的に珍しく、日本が「和の国」と言われる所以はそこにあり、皇室が二千年続いてきた理由の一つが許す文化に垣間見られる。
このような「和の文化」こそ、日本が世界に発信しなくてはいけない。
許す文化が広がれば、人を恨まない社会が実現する。
古来日本が継承してきた「和の心」を再確認する。
これは、人間同士のものだけではなく、大自然に対してもそうであり、謙虚になって、他者を思いやって、協調を重んじ、許すことを知る「和の精神」こそ、日本が世界に向けて発信せねばならないことであると思います。
弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは、強さの証だ。
(マハトマ・ガンジーの名言)
最後に、面白い話を一つ。
「怨霊になった天皇」の原稿を書き始めたその日に、竹田さんと関係者と事務所のパソコンの合計4台が同時に壊れたのだそうです。
そのほかにも怪現象がたびたび起こっていたようで(このエピソードも面白かったので、ぜひ本を読んでください)、これは神武天皇に殺されてしまった古代の女王ナグサトベについて書いた「名草戸畔 古代紀国の女王伝説〜増補改訂版〜」の著書であるなかひらさんも、怪現象に遭遇したようで、「これらを記すと別の系統の本になるので一つだけ書いておく」とし、密室で社長の強化ガラステーブルが粉砕されていたことや猫が血尿を出したこと、それを知人に言うと「ナグサトベがここに来た」と言われたことなどをあげています。
それら怪現象をもたらすのはどういった存在であるのか、知りようもないけれども、確かに「目に見えない存在」というのは存在しているのだろうなぁと、私は思います。
ちなみに、私がブログをやっていて、パソコン不調+故障となった記事が一つだけあって、それは青森のキリストの墓の記事でした。
いろいろ本を読んだり、日常の気づきから思うこととして、
周りの人を大切にする
私たちは、霊性を高めるために日々生きており、「和の国」である日本に生まれたことは、とても意味のあることだと思います。
日本は大いなる和の国、「大和(ヤマト)」です。
↓ぜひ本を読んでください。
↑
こちらは私の故郷である和歌山市が舞台。初代天皇である神武天皇が、和歌山市の名草にやってきて、女王のナグサトベと戦い、ナグサトベは殺された。「ナグサトベはまだ成仏しておらず、怨霊になってさまよっている気がするから、本にして存在を世に出して、供養してほしい」と知人から頼まれ、探っていくことになります。日本人は今、一つの家族のように平和に暮らしていますが、かつては争っていたことを忘れてはなりません。どうか日本がこれからも平和でありますように。そして、過去に争いで死んだ御霊が癒されますように。
関連記事
→→名草戸畔(なぐさとべ)の記事はこちら・・・「日本人」は単一民族ではない。土着民と渡来人が、時には争いながらも融合した「和」の国だった。
→→【奥琵琶湖 菅浦の湖岸集落散策】の記事はこちら・・・淡路廃帝・淳仁天皇の御陵と、琵琶湖の古代遺跡。
→→青森の「キリストの墓」に埋葬されているのは、本当にキリストなのだろうか・・・宇宙には様々な星があり、私たちの地球は「カテゴリー1」と呼ばれる悲しみの惑星。人間は霊性を向上させるために、何度も輪廻転生する。
→→【比叡山と高野山、最澄と空海】 比叡山延暦寺紹介の前に、簡単に説明・・・桓武天皇も祟りに苦しみ、密教の加持祈祷に救いを求めた。最澄が空海に弟子入りしたきっかけの一つは、桓武天皇が恐れた「祟り」だった。