【比叡山と高野山、最澄と空海】 比叡山延暦寺紹介の前に、簡単に説明

前回からの続きで、琵琶湖一周旅+京都旅の紹介です。

→→2018年5泊6日滋賀県琵琶湖一周旅行記の行程はこちら・・・レンタカーを利用して、5泊6日で27か所を巡りました。

次は比叡山について書くのですが、その前にちょっと比叡山(ひえいざん)と高野山(こうやさん)、最澄(さいちょう)と空海(くうかい)について簡単に書いておきます。

日本三大霊山とは

比叡山は、日本三大霊山のうちの一つです。

日本三大霊山

・青森県の恐山

・滋賀・京都にまたがる比叡山

・和歌山県の高野山

この三大霊山は、それぞれ、お寺があります。

  • 恐山・・・恐山菩提寺。862年に天台宗の慈覚大師円仁により開かれた。(現在は曹洞宗の寺院)
  • 比叡山・・・延暦寺(えんりゃくじ)。788年に天台宗の開祖である伝教大師最澄(さいちょう)により開かれた。日本天台宗の総本山。
  • 高野山・・・金剛峯寺(こんごうぶじ)。816年に真言宗の開祖である弘法大師空海(くうかい)により開かれた。高野山真言宗の総本山。

 

最澄と空海は、学校で習いましたね。

伝教大師「最澄」と、弘法大師「空海」

二人は同じ時代(平安時代初期)の僧侶です。

 

最澄は大津市生まれで、父方の先祖は後に日本に帰化した後漢の孝献帝(こうけんてい)の子孫である登万貴王(とうまんきおう)。母は藤原鷲取朝臣(ふじわらのわしとりあそん)の娘で、藤原藤子(とうし)。

 

空海は香川県善通寺市で生まれで、父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀大足の娘(あるいは妹)だといわれ、父母共に豪族。

 

最澄の方が空海よりも8歳ほど年上でした。

 

 

最澄は非常に優秀な人物として注目されており、唐(中国)への留学費用は全て国が負担しました。

金銭面では圧倒的に有利なのですが、留学は短い期間しかなかったため(1年だけと決められていた)、法華経や密教の一部を6ヶ月学び、日本に持ち帰りました。

 

 

一方、空海はといいますと、謎の7年間の後(この期間の空海の足跡はなぜだか不明)、全額私費で唐へ留学。(空海は豪族の子供なので、助力してくれる人がいた?)

私費留学なので留学期間は20年まででしたが、恵果和尚(けいかおしょう)に大変気に入られて密教の全てを授けられ、1年8ヶ月後に帰国しました。

 

スーパーエリートで国から全額補助が出て唐に渡った最澄と、謎の7年間の活動の後、全額私費で唐に渡った空海・・・、面白いですね。

 

今でこそ海外へ行くとなると、安全な旅ができるのですが、この時代、隣の中国へ渡るのは命がけの渡航でした。

お二人とも、自分の命を懸けて唐へ新しい仏教を学びに行き、日本に持ち帰り、広めたのです。

 

密教をもっと学びたかった最澄

このころ、桓武天皇(かんむてんのう)は病に臥せっており、「この病は怨霊からくるものだ」と思っていましたので、加持祈祷(かじきとう)で病を払う密教を最澄が学んできたのを大変喜びましたが、最澄は「もっと密教を学びたい」と思っていました。

最澄は一か月ほどしか、密教を学ぶことができなかったのです。

 

そこで、唐にて密教のすべてを授けられて帰国した空海に「弟子にしてほしい」と申し出、空海もこれを受け、最澄は空海の弟子となり、密教を学ぶことになりました。

それから4年後、最澄は「密教の大事な経典を貸してほしい」と空海に求めましたが、断られます。

 

というのも、当時、仏教ではタブーだった「男女の性愛」でさえ清いと説く経典だったので、空海は「間違ったふうに解釈されてはいけない」と懸念し、「時間をかけて、私の所へ学びにきてください」と最澄に要請したのですが、最澄は長期間比叡山を空けることができなかったため、応えられませんでした。

 

両者の交流は、ここで絶たれたのだそうです。

 

この「経典の貸し借りが元で疎遠になった説」の他、「弟子が原因で疎遠になった説」などがあるので、興味のある方は調べてみてはいかがでしょうか。(結局、当事者同士にしかわからない問題だとは思いますが)

 

 

天台宗と真言宗は、以降1,200年にわたり交流が無かったのですが、2009年に和解したようです。

 

(朝日新聞の記事より抜粋)

天台宗(総本山・比叡山延暦寺)トップの半田孝淳(はんだ・こうじゅん)座主(ざす)が、和歌山県高野町の高野山真言宗総本山金剛峯寺を訪れた。

天台宗開祖の最澄は晩年、経典の貸し借りをめぐって空海と疎遠になったとされ、両宗派の開宗以来1200年間で初めての公式参拝となった。

最澄と空海は唐(中国)での留学仲間だったが、晩年に最澄が経典を借りようとしたところ空海が拒み、疎遠になったとされる。

 

 

弘法大師空海が開いた高野山は以前取り上げましたので、【高野山の総門「大門」】の記事からご覧ください。大門、壇上伽藍、金剛峯寺、奥の院と、4つに分けて書いてあります。

 

 

「天台宗と真言宗の違い」は、宗教に疎い自分が変に端折って書くのは良くないと思うので、興味のある方は「天台宗の教え」「真言宗の教え」などのキーワードでお調べくださいm(_ _)m わかりやすく書かれているサイトがたくさんあります。

 

 

高野山の総門「大門」の記事で書きましたが、「高野山」という名前の山はありません。高野山は、八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)と呼ばれる峰々に囲まれた、盆地状の平地の地域を指しています。

 

一方、比叡山も「比叡山」という名前の山はありません。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ)の二峰から成る双耳峰の総称を、比叡山と呼びます。

 

 

高野山も比叡山も共にユネスコの世界遺産に登録されており、高野山は「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つで、比叡山は「古都京都の文化財」の一つです。

 

桓武天皇が恐れた祟り

先程にも書きましたが、最澄が「もっと密教を学びたい!」と思ったきっかけが、桓武天皇(かんむてんのう)の病。

桓武天皇は「この病は、怨霊から来ている」と恐れていました。

 

一体誰の怨霊に悩んでいたのか・・・というと、桓武天皇の弟の早良親王(さわらしんのう)です。

 

早良親王は、長岡京の造営責任者であった藤原種継暗殺の首謀者としての疑いがかけられたことに抗議し、乙訓寺に幽閉された後、絶食して命を絶ちました。(憤死して怨霊になった?)

 

その翌年の延暦5(786)年から、桓武天皇の身内に不可解な出来事が次々と降りかかります。

まず、桓武天皇の妻の母が死に、その翌年には妻が死亡。

さらに天皇の母と、皇后が死亡し、桓武天皇の息子である安殿(あて)親王が重病となりました。

極めつけに天然痘の流行や洪水といった災難が相次ぎ、陰陽師に原因を聞いたところ、出てきたのが「早良親王」の名前だったそうです。

 

 

最澄は唐から帰国して、学んだ密教で桓武天皇に祈祷したものの、桓武天皇は病で亡くなってしまいました。

桓武天皇の後を継いだ息子の平城天皇は、弟の伊予親王を謀反の疑いで服毒自殺に追い込み、伊予親王の怨霊に祟られたせいか身体の不調を訴えて、弟に皇位を譲ります。
しかし、皇位を譲った弟の嵯峨天皇と対立して、平城天皇は失脚し、恨みを持って死んだせいか、平城天皇も怨霊となった(?)そうな・・・。

 

以前、【「怨霊になった天皇」を読んだ】 人を恨んではいけない。「和の文化」は、世界に誇れる日本の心の記事で、最大の怨霊「崇徳天皇」について書きましたので、興味のある方はご覧下さい。

 

「怨霊というのは人が認識してこそ、初めて怨霊となる。怨霊は生者が作り出す」と、明治天皇の玄孫である竹田さんは著書で書かれていますが、争いで相手に非業の死を遂げさせてしまった者はその罪悪感からか「怨霊」を意識するようで、それを鎮めるために仏教や陰陽道などが力を持って行った背景がよくわかります。

 

私は宗教に疎いのですが、

  • 人を恨むような生き方をしない
  • 人から恨まれるような生き方をしない

ことは、大切だなぁと思います。

 

 

では、次の記事で、比叡山延暦寺のまわり方を書きたいと思います。

 

次の記事はこちら

前回、【比叡山と高野山、最澄と空海】 比叡山延暦寺紹介の前に、簡単に説明と書いたので、次は、交通アクセスについて書きます。 →→2018年5泊6日滋賀県琵琶湖一周旅行記の行程はこちら・・・レンタカーを利用して、5泊6日で27か所を巡りまし[…]

 

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