続けて、滋賀県の琵琶湖一周旅行の紹介です。
今日は戦国の覇者・織田信長の居城だった、安土城跡(あづちじょうあと)を取り上げます。
旅行記
この前に訪れた、パワースポットの【阿賀神社(太郎坊宮)】から安土城跡までは、車で20分くらいの距離です。
特別史跡 安土城跡。
安土城は、織田信長が1576年の1月17日に、標高199mの安土山に築城させた城があったところです。
織田信長・・・、学校で習いますし、戦国武将の中でも大人気なので、知らない人はいませんね。
信長は尾張(愛知県)の生まれで、「美濃のマムシ」と恐れられた下克上の代表格である斎藤道三の娘の濃姫(のうひめ)と政略結婚。
しかし、二人の間に子はできず(あんまり仲が良くなかった?)、信長は生駒屋敷の吉乃と出会い、彼女からの紹介で木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と出会います。
信長と吉乃は仲が良く、信長の長男と次男は、この吉乃との間にできました。
信長には吉乃をはじめ、たくさんの側室がおり、子供は十数人とも二十人とも言われているようですが、ハッキリとした数はわかりません。
ただ、正室の濃姫との仲が良くなく、後に京都の本能寺で信長を討つことになった明智光秀は、濃姫とはイトコとする説もあるようです。
もう少しで天下統一というところで、その明智光秀に攻められ、京都の本能寺にて自刃。信長の野望は潰えました。
明智光秀は、本能寺の変から13日後に秀吉の部下に討たれ、あとを継いだ秀吉により天下統一が成されました。
信長の殺害は、明智光秀の個人的な怨恨説の他、信長を討つ命令を出した黒幕として、正室の立場を軽く見られた濃姫による恨み説、信長に危機感を募らせた朝廷からの暗殺要望説の他、秀吉による下克上説、イエズス会による陰謀説などがあるようです。
いろんな説がありますが、「信長はそもそも本能寺の変では死んでいない説」もあるので、興味のある方は調べてみてはいかがでしょうか。(信長の遺体は見つからなかった)
さてさて、死が謎で、歴史ミステリー番組でよく取り上げられていた信長ですが、彼が天下統一を目標にして建てたのが、安土城。
これは、三重県のレジャー施設【伊勢安土桃山文化村】のものですが、このような奇抜で変わったお城であったそうです。
VR安土桃山城のダイジェスト版も、ぜひご覧ください。
安土城築城当時は、琵琶湖の内湖に囲まれ、南方のみが開けた地形であったそうです。
大変豪華な城だったようですが、本能寺の変後、焼失してしまいました。
はっきりとした原因はわかりませんが、落雷説の他、放火説もあるようです。
現在、安土城跡のまわりは埋め立てられて陸地になっており、城跡は発掘調査はされたものの城の復元はしていないので、かなり寂しいところになっています。
(安土城跡の近くに、「信長の館」という有料施設があり、最上部二層のみ復元した安土城があるそうです)
安土城跡のマップ。
入山料は700円。
注意事項は、この先にトイレがないこと、ゴミは各自持ち帰ること、マムシが出るので注意すること、ペット入山禁止などです。
行きはひたすら、大手道の階段を上ります。
階段を上り始めてすぐ右に前田利家邸跡、左には羽柴秀吉邸跡があります。この二人は盟友ですね。
数年前のNHK大河ドラマ「利家と松」で、仲良しぶりを知りました。
前田利家邸跡のさらに上は、徳川家康邸があったと伝えられているそうです。
羽柴秀吉・・・、後に、豊臣秀吉となり、信長にかわって天下統一を成し遂げます。信長の安土城も豪華でしたが、秀吉が築城した大阪城も豪華! 大阪城はまた後日取り上げます。
秀吉については、【長浜城】 羽柴(豊臣)秀吉が初めて築城したお城。大出世した秀吉の出身が謎で書きましたので、ご覧ください。
復元図は豪華でしたが、秀吉邸跡の現在はこんな殺風景な広場です。
ここに、秀吉が住んでいたのかぁ・・・。
秀吉が初めて建てた【長浜】と、安土城跡は車で一時間ほどしか離れていないので、併せてまわるのも楽しいと思います。
ひたすら階段を上る。
時々、石仏が埋まっているので、探してみてください。
築城の際には、近くの山から採取した石の他、墓石や石仏も使われたそうです。
羽柴秀吉邸跡を過ぎると、左手側に武井夕庵邸跡があります。
織田信忠邸跡。
信忠は、信長と生駒屋敷の吉乃との間に生まれた、信長の長男です。
信長から家督を譲られましたが、本能寺の変で自刃。(信長同様、信忠の遺体も見つかっていない)
後に、信忠の息子の三法師(信長の孫)を推す秀吉と、三男を推す柴田勝家の間で、争いが起きます。
【余呉湖(よごこ)】 日本のウユニ塩湖? 賤ヶ岳の戦いがあったところで書きましたので、ご覧ください。
次は、織田信澄邸跡と、森蘭丸邸跡。
織田信澄は、信長の甥にあたります。
森蘭丸は、有名ですね。織田信長の小姓で、本能寺の変で死にました。享年18歳。美少年であったようで、信長に寵愛されていたそうです。
ここから天守跡周辺です。
写真は、黒金門跡。
安土城の中枢部分への入り口でした。
ここから先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていたエリアです。
この一帯は標高180mで安土山で一番高く、周りは頑丈な石垣で固められていました。
当時の安土山は、琵琶湖の内湖に囲まれ南側しか開いておらず、ここに来るまでの途中には羽柴秀吉や前田利家の邸宅などもあるわけですから、かなり守りの堅い城であったことがわかります。
天守などが火災により焼失した後、400年以上も残っていた石垣。
歴史好きな人には、ワクワクするところではないでしょうか。
本丸跡を抜け、いよいよ天守閣跡へ。
天守閣跡。
石の台がいくつか残っているだけでした。
ここに建っていた天守閣の最上階から、信長はどんな景色を見ていたのだろう・・・。
天守閣跡から見た現在の景色。
信長が生きていた時代は、湖に囲まれ、周りがキラキラと輝いていたことでしょう。
安土城は、地上六階、地下一階の建物で、高さは35m程。
私達がいた所は、どうやら天守の地下一階部分であったようです。
もう一度、三重県のレジャー施設【伊勢安土桃山文化村】の安土城天守写真を貼っておきます。
安土城は、築城してから三年で焼失してしまいました。
【印刷博物館】の記事に書きましたが、天守跡の下方の本丸跡には、天皇を招き入れる「御幸の間」がありました。
天守閣の下に天皇の御殿、それよりさらに上に建てられた天守閣の最上階に信長の金ピカの部屋。
結局、天皇は一度もここに来ることなく、信長は京都の本能寺で死に、安土城は焼失してしまいましたが、「私こそが一番!」と信長が自分の権力を誇示していたかのように思えました。
ちなみに、このころの天皇は正親町天皇(おおぎまちてんのう)でしたが、応仁の乱などで朝廷は衰弱し、大変貧乏であったそうです・・・。
本能寺の変で信長は横死してしまいますが(死なずにスペインに行った説もある)、朝廷黒幕説もあり得る話で興味深いですね。
最後は、信長公本廟へ。
信長は本能寺で死んだといわれていますが、遺体は見つかっていません。
この廟に収められているのは、信長の遺骨ではなく、遺品です。
遺品をここに埋葬して本廟としたのは、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)です。
信長の敵を討った秀吉は「忠義者」といったイメージが強いですが、部下に打ちとらせた明智光秀の首は腐敗していて本人かわからなかったというし、信長が死んで一番おいしい思いをしたのは秀吉ですからね。
うーん、秀吉も、なにか怪しいなぁ。
ちなみに、明智光秀は後に天海と名を改め、徳川家康と組んで江戸の町づくりを行ったとする説もあります。
真偽のほどはわかりませんが、面白いですね。
天守跡を見たら、帰路は別ルートです。
摠見寺(そうけんじ)、仁王門。重要文化財。
摠見寺は、信長の菩提寺です。
摠見寺(そうけんじ)、三重塔。重要文化財。
信長が甲賀の長寿寺から移築したものだそうです。
伊賀と甲賀は忍者で有名ですね。彼らは、山の中で戦う特徴的な戦術を有しており、信長の進行を妨げたため、信長は大変恐れたそうです。
帰りは、このような下り坂です。
羽柴秀吉邸跡に戻ってきました。
これで、安土城跡散策は終わりです。
次は、日牟礼八幡宮(ひむれはちまんぐう)を紹介します。
ここの奇祭「左義長まつり」は、織田信長が安土城下で、毎年正月に盛大にやっていたお祭りが起源です。
神社のすぐ近くには、クラブハリエ、たねやといったおやつが楽しめる店があり、「八幡堀」という大変美しい散策道があります。
次が、琵琶湖一周旅五日目の最後です。
前回の続きで、滋賀県の琵琶湖一周旅五日目です。 【安土城跡】の次は、車で15分ほど離れた日牟礼八幡宮(ひむれはちまんぐう)へ向かいました。 →→2018年5泊6日滋賀県琵琶湖一周旅行記の行程はこちら・・・レンタカーを利用して、5泊6[…]
(この旅行記は2018年です)
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→→【長浜城】 羽柴(豊臣)秀吉が初めて築城したお城。大出世した秀吉の出身が謎・・・信長と秀吉を引き合わせた生駒屋敷の吉乃。生駒氏は、信長の天下統一にはなくてはならない存在であった。
→→【旧・伊勢安土桃山文化村】の記事はこちら・・・安土城跡を模した建物があります。三重県のテーマパークです。
交通アクセス
車で行く場合、駐車料金は普通車510円、バス2000円です。
料金
入山料700円
入場時間 9:00~16:00 (季節により変動)
近くの宿泊施設
ホテルニューオウミ。