【比叡山延暦寺 西塔(さいとう)エリア】からの続きで、比叡山延暦寺(世界遺産)の紹介です。
最後は、横川(よかわ)エリア。
【日吉大社】方面(仰木ゲート)から入った場合、初めにまわるエリアです。
参拝記
比叡山(ひえいざん)への交通アクセスは、以前記事にしたのでご覧ください。
比叡山(ひえいざん)の信仰はもともと日吉大社(ひよしたいしゃ)から始まりました。
平安時代初期の僧侶「最澄(さいちょう)」が比叡山にはじめて寺を開いたのが、【比叡山延暦寺 東塔(とうどう)エリア】です。
その後、最澄は短期留学生として唐に渡航し、霊地・天台山で、天台大師智顗直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学び、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学びました。
たくさん学んで帰国した最澄は、天台宗を開きました。
最澄は、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝え(四宗相承)、平安時代初期に最澄が開いた延暦寺は「仏教の総合大学」ともいえるものでした。
最後に紹介する横川(よかわ)エリアは、最澄の弟子で、第三代天台座主(トップ)であった慈覚大師円仁(えんにん)により開かれ、後に活躍した源信(法然や親鸞に多大な影響を与えた浄土教の祖)、親鸞(浄土真宗の開祖となる)、日蓮(日蓮宗の開祖となる)、道元(曹洞宗の開祖)などの名僧たちが修行に入った地です。
横川(よかわ)の場所は、比叡山延暦寺の一番右(方角で言うと、北)にあり、東塔・西塔からはけっこう離れています。
東塔~西塔は徒歩で行ける距離ですが、西塔~横川はけっこう離れているので、公共交通機関で回る方は、山内シャトルバスで移動しましょう。
車で行く場合、駐車場料金は無料です。
東塔、西塔、横川の3つのエリアを回るには、「参拝共通券」が必要で、2021年の料金では大人1000円、中高生600円、小学生300円かかります。
東塔、西塔、横川のどこでも、この共通券を取り扱っており、それぞれのエリアに入場する時は券を係りの人に見せます。
私たちは参拝共通券のみでしたが、「比叡山国宝殿拝観料」とのセット券もあり、大人1500円、中高生900円です。
横川マップ。
見所は、横川中堂と、その北にある元山大師堂(四季講堂)です。
説明の便宜上、比叡山東塔→西塔→横川(よかわ)と歴史の古い順から取り上げてきましたが、仰木ゲートから入った私達が初めて参拝したのが、この横川でした。
平日の朝9時20分ごろでしたので、静かなお参りとなりました。
受付窓口を過ぎると、道沿いに道元(曹洞宗の開祖)、親鸞(浄土真宗の開祖)、日蓮(日蓮宗の開祖)の説明ボードが並びます。
親鸞については、前回の記事で説明しましたので、【比叡山延暦寺 西塔(さいとう)エリア】の記事でご覧ください。
説明ボードが終わると、「竜ヶ池」に出ました。
「龍ヶ池の龍神が現れて 池を清浄に 我を助けよ と述べられた夢告により浚渫(しゅんせつ)工事一式を奉納する」の、石碑が近くにありました。
元三大師と、毒を吐く大蛇が念力対決をしたそうです。
僧と毒蛇(毒龍)、弁天様と暴れ龍は、いろんなところに伝説がありますね。(私が現在住んでいる神奈川県では、芦ノ湖、江ノ島など)
「龍ヶ池弁財天」。
では、横川エリア一番の見どころの「横川中堂」へ行きましょう。
横川中堂は、848年に根本観音堂として創建され、現在の御堂は昭和46年に再興されたもので、遣唐使船をモデルとした舞台造りなのだそうです。
本尊は、円仁(えんにん)作といわれる聖観音菩薩です。
比叡山北にある「横川(よかわ)」の基を定めたのは、円仁(えんにん)です。
円仁は、比叡山延暦寺を開いた日本天台宗の開祖である最澄の弟子になり、比叡山で修行した後、青森から岩手方面へも布教に行きました。(日本三大霊山の一つである青森県の恐山は、円仁が開いたとされる)
東北などへの布教活動を終えた後、比叡山に戻りましたが、重い病に倒れ、比叡山横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)に籠もります。
この時、最澄が念願された如法経(法華経の写経)を、神仏に祈りながら写経しました(六千部を目標にした)。
これが如法写経の始まりで、その功徳があったのか円仁は回復。
後にこの写経を宝塔に納めて本尊として祀り、建立したのが、横川の根本如法堂です。
根本如法塔は、横川中堂のすぐ近くにあります。
現在の塔は、大正14年に建てられたもので、この地下からは如法教を埋納した銅筒や経箱(国宝)が出土したそうです。
回復した円仁はその後、「最後の遣唐使」として短期留学僧として唐へ渡ります。
2回の渡航失敗を経て、三回目の渡航でギリギリ渡れましたが(船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁は潮で濡れ、船は全壊するという形での上陸だった)、大変残念なことに、規制のため目的の天台山へは行けず、そのまま帰国しなくてはならない事態になりました。
しかし、そのまま帰るわけにはいかない円仁は、危険を冒して、不法在唐を決意!
いろんな方に助けられたり、中国語の話せない不審人物として役所に突き出されたりしたものの、不法在留者でありながら通行許可証を得ることに成功。
そこから、円仁の長い長い旅が始まります。
円仁は、遣唐使一行から離れて、天台山の代わりに紹介された五台山まで、約1,270キロメートルを歩き(青森駅から日本海側を歩いて広島駅までの距離に相当!)、五台山の標高3,000mを超す最高峰の北台叶斗峰にも登山。
さらに、当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1,100キロメートルを徒歩旅行!
歩いて歩いて歩きまくった円仁。
苦労して唐に渡り、たくさん歩いて、いろんな僧に会って、曼荼羅や膨大な経巻を手にした円仁は、帰国も大変でした・・・。
唐に100回くらい「帰国したい」と申し出るものの全て断られ、やっと帰れたきっかけが「外国人僧の国外追放」。
唐が衰退し、治安が悪化している中での帰国でした。(この帰り道では、107日間も歩いた)
円仁は、伝教大師最澄(日本天台宗の宗祖)や弘法大師空海(高野山真言宗の宗祖)が日本へ搬入しなかった経典や、その後の新訳経典を意識的に集めて持ち帰り、日本の密教の発展に寄与しました。
この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅を記した「入唐求法巡礼行記」は、日本人による最初の本格的旅行記となったそうです。
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玄奘三蔵(さんぞう)の「大唐西域記」、マルコポーロの「東方見聞録」とともに、世界の三大旅行記とされるそうです。
円仁はこの後、三代目の天台座主(トップ)となりました。
円仁は71歳で亡くなり、その二年後、死を悼んだ清和天皇は、最澄に伝教大師(でんぎょうだいし)、円仁には慈覚大師(じかくだいし)と、共に日本で初めての大師号(だいしごう)を贈りました。
円仁は前回の【比叡山延暦寺 西塔(さいとう)エリア】の記事にも書きましたが、亡くなった最澄の遺骸を西塔の浄土院の場所に安置した方でもあります。
浄土真宗の開祖「親鸞(しんらん)」は師匠の「法然(ほうねん)」を大変尊敬し、その法然はといいますと円仁を大変尊敬していたようで、円仁の衣をまといながら亡くなったのだそうです。(円仁が生きた時代と法然が生きた時代は、三百数十年の開きがあるので、面識はなかった)
次は、元三大師堂(がんざんだいしどう)についてですが、続けて書くと長くなるので、次の記事へ続きます。
元三大師は本名を「良源(りょうげん)」といい、第18代天台座主(比叡山のトップ)となった方。記事のはじめにとりあげた「竜ヶ池」にて、毒を吐く大蛇と念力対決をした僧侶です。
大規模な火災で根本中堂を初めとする多くの堂塔を失い、荒廃していた比叡山延暦寺を立て直した「延暦寺中興の祖」であり、おみくじの創始者と言われています。
【比叡山延暦寺 横川(よかわ)エリア①】 横川の基を築いた円仁(えんにん)は、歩きまくった名僧だった! 世界の三大旅行記「入唐求法巡礼行記」の著者の続きで、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の紹介です。 横川(よかわ)エリアの紹介[…]
(この旅行記は2018年です)
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→→【比叡山と高野山、最澄と空海】 比叡山延暦寺紹介の前に、簡単に説明
→→【日吉大社】の記事はこちら・・・比叡山の信仰はもともと日吉大社から始まった。
→→高野山の記事はこちらから・・・空海が開いた。
交通アクセス
→→【比叡山延暦寺は広い】 車でまわると2,000~4,000円。公共交通機関でのアクセスは?に詳しく書きました。
料金
東塔、西塔、横川の3つのエリアを回るには、「参拝共通券」が必要で、2021年の料金では大人1000円、中高生600円、小学生300円かかります。
東塔、西塔、横川のどこでも、この共通券を取り扱っており、それぞれのエリアに入場する時は券を係りの人に見せます。
私たちは参拝共通券のみでしたが、「比叡山国宝殿拝観料」とのセット券もあり、大人1500円、中高生900円です。
近くの宿泊施設
延暦寺会館。東塔エリアにあります。