【松代地震観測所・天皇御座所予定地跡】 本土決戦に備えて天皇・皇后御座所、宮内省の移転先だった。現在は松代群発地震など、長野県周辺の地震活動の監視を行う

前回の記事「【松代象山地下壕(松代大本営地下壕)】 太平洋戦争末期、日本政府中枢機能移転のために作られた「松代大本営」の地下壕の一つ」の続きで、松代(まつしろ)地震観測所・天皇御座所予定地跡を紹介します。

【松代象山地下壕(松代大本営地下壕)】は、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設予定でしたが、今日紹介する舞鶴山(当時は狼烟山と呼ばれていた)地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現宮内庁)として予定された建物が造られました

現在は、気象庁が使用しています。

旅行記

前回紹介した「象山(ぞうざん)地下壕」からは、1.5km、車で4分の距離にあります。車で行く場合、無料駐車場があります。

公共交通機関で行く場合、長野駅からバスに乗り松代駅バス停で下車、徒歩35分。または松代駅バス停から松代高校バス停までバスで移動し、徒歩25分です。

 

前回の記事はこちら

今日は長野県長野市松代町にある「松代象山地下壕(まつしろ ぞうざんちかごう)」を紹介します。 海岸から近くて広い関東平野にある東京は、太平洋戦争末期、大日本帝国陸軍により「防衛機能が弱い」と考えられ、本土決戦を想定して海岸から離れた場[…]

 

 

 

 

のどかな風景ですね。

 

 

無料駐車場があったので、車を停めました。

 

 

 

松代地震観測所を駐車場から見たところ。

 

 

この施設は2016年から無人になっており、立ち入ることはできません。

 

 

第二次世界大戦末期、関東平野の大本営を海から遠い安全なこの地に移転・入居するために、天皇御座所をはじめとする地上建造物及び地下坑道の工事が行われました。

しかし、完成することなく、終戦とともに工事は中止されました(工事期間は9か月)。

これらの施設を利用して、1947年(昭和22年)5月に中央気象台松代分室がここに設置され、地震観測業務が開始されました。

世界的にも有数の地震観測施設として、現在も稼働しています

1965年(昭和40年)8月から激しい群発地震松代群発地震が発生し、松代町をはじめとする地元住民を恐怖に陥れました。1967年(昭和42年)2月に、関係機関及び自治体の協議体として、松代地震センターが設置。設置の背景には、冷戦において北朝鮮のほかソ連、インドの地下核実験を探知し、核開発競争に日本としての役割を果たすこともあったそうです。冷戦後も、この施設は包括的核実験禁止条約における核探知の中心基地として機能しているそうです。

また、大地震発生時の気象庁本庁のバックアップなども行っているようです。

 

とても不思議なことに、松代群発地震は現在も継続しており、体に感じないような小さな地震が年間数百回程度発生しているそうです。

 

 

松代群発地震は、1965年8月から1970年の五年間で体に感じる地震は6万回以上、体に感じない総地震回数は、なんと70万回以上!

1966年4月17日は特に揺れが多く、585回もの有感地震があったのだそうです。

松代群発地震の最大震度は5、マグニチュードは5.4で、5年間で震度5の地震が10回起こりましたが、避難指示が出ていたため死者はでませんでした。しかし、ノイローゼ、けが人、地震による家屋倒壊、皆神山の東斜面で地滑りの被害があったようです。

 

 

この記事を書いている2025年は、松代群発地震発生から60年になり、七年ぶりの一般公開が開かれたそうです。

 

 

 

 

 

松代地震観測所のすぐ隣に、天皇御座所予定地があります。

 

 

庁舎の外からの見学のみです。

 

 

太平洋戦争末期、本土決戦に備えて、ここに天皇・皇后御座所と、宮内省の移転をする予定でした。

昭和22年から気象庁が利用しています。

 

 

窓の外から撮った写真。

材質はヒノキ、秋田杉などの高級材質が使われています。

なんと、建物の上と裏のコンクリートは厚さ80~90cmで、当時はその上に土が盛られ半地下壕建築になっており、裏山と一体となることで上空から視認できないようにカムフラージュされていたそうです。

 

 

 

(気象庁HPから借りた付近マップ)

 

  1. 第一庁舎は天皇の御座所(15畳の居間兼寝室)
  2. 第二庁舎は皇后の御座所
  3. 第三省庁は当時の宮内庁の施設

として利用される予定であったようです。

また、第一庁舎の天皇御座所と、第二庁舎の皇后御座所は、それぞれから避難壕である小坑道につながっており、坑道には天皇の玉座や浴室が設置されていました。

松代大本営の完成よりも先に、こちらの部屋がほぼ完成していたというから、国体護持に対する熱量がよくわかります。

日本の皇室は、万世一系、世界最長最古ですからね。

 

 

天皇皇后はこちらを利用することなく、東京の皇居で過ごされました。

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戦時中の皇居防空対策といいますと、地下金庫がありましたが、大型爆弾に耐えられないし狭かったようです。

そこで、天皇皇后は、皇居第2期庁舎の防空室に三種の神器のうち八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)をもって避難していたそうです。(もう一つの神器である八咫鏡は伊勢神宮の神体)

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のちに、大本営防空壕「御文庫」が皇居吹上御所内に作られましたが、地上1階、地下1階・2階の3階建てで、天皇・皇后の寝室、居間、書斎、応接室、皇族御休息所、食堂、洗面所、侍従室、女官室、風呂、トイレなどがあったそうです。

屋根は1トン爆弾に耐えるよう、コンクリート1mの上に砂1m、さらにその上にコンクリート1mを重ねた計3mの厚さ。

天皇は午前中は表御座所(御政務室)で、午後は御文庫で過ごすのが日課でした。

戦況が悪化すると、1945年6月頃にさらに頑丈な「御文庫附属室庫」が御文庫から90m離れた地下10mに陸軍工兵部によって建設されました。広さ330m2、56m2の会議室2つと2つの控室、通信機械室があり、床は板張り、各室とも厚さ約1mの鉄筋コンクリートの壁で仕切られていたそうです。50トン爆弾にも耐えるよう設計され、御文庫とは地下道で結ばれており、この地下壕はのちの終戦時の2度の御前会議の場所となりました。

 

松代の天皇御座所はコンクリートの厚みが80~90cmなので、吹上御所に作られた御文庫と、御文庫附属室庫はかなり頑丈なつくりであったようです。

→→御文庫附属庫  宮内庁HP・・・映像もあります。

 

 

映画「終戦のエンペラー」や「日本のいちばん長い日」を見ましたが、戦争は終えるのが本当に大変なのだと、戦争を起こさないことが一番なのだと痛感しました。

【靖国神社と遊就館】 の記事にも書きましたが、当時の世界情勢は過酷であり、日本のかじ取りは大変な苦労を伴ったのだと思います。私の祖父母は生きて終戦を迎えましたが、そうではない方々も多くいました。

 

歴代天皇に連綿と受け継がれた「国やすかれ、民やすかれ」の大御心。

 

どうか、日本が平和で豊かな国でありますように。

 

そして、世界もそうでありますように。

 

 

 

次は、松代群発地震の震源地付近である「皆神山(みなかみやま)」を紹介します。

 

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(この旅行記は2019年のものです)

 

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交通アクセス

前回紹介した「象山地下壕」からは、1.5km、車で4分の距離にあります。車で行く場合、無料駐車場があります。公共交通機関で行く場合、長野駅からバスに乗り松代駅バス停で下車、徒歩35分。または松代駅バス停から松代高校バス停までバスで移動し、徒歩25分です。

料金

無料です。

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