【難波宮(なにわのみや)】 大阪城のすぐ近く。大極殿跡が立派! 大化の改新後、日本の首都になったのは難波

前回からの続きで、大阪市の観光紹介です。

今日は大阪城の南にある「難波宮(なにわのみや)」を紹介します。

旅行記

難波宮(なにわのみや)へ公共交通機関で行く場合、谷町四丁目駅から徒歩五分です。

車で行く場合、有料駐車場を利用。

 

 

前回紹介したNHK大阪放送局からは徒歩5分です。

 

 

難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)にあった古代の宮殿で、日本の首都であり都城でした。

跡地は国の史跡に指定されています。

入場無料。

 

 

難波宮の存在は日本書紀に載っていたものの、第二次世界大戦が終わるまでは所在地は不明でした。

しかし、昭和36年(1961)、大阪市立大学教授で考古学者の山根徳太郎さんが難波宮(なにわのみや)跡を発見!

 

発掘調査により、飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認されました。赤印の所が前期難波宮のもので、青印の所が後期難波宮です。

難波宮自体はもっと広い敷地だったのですが、宮殿の中心部とされる約9万平方メートル余りの範囲が国の史跡に指定され、史跡公園として残されています。

 

 

現地の看板の説明。

  • 今から1370年ほど昔、飛鳥時代という時代にこの場所に「なにわの宮」という宮殿がつくられて、日本の首都になった。
  • 最初につくられたなにわの宮は、日本で最初の本格的な宮殿で、中心部の両側には八角形の弐階建ての建物が建てられ、立派な宮殿だった。

 

 

赤いタイルがある部分は、大化改新(たいかのかいしん)による難波遷都の後、650年から造営が始められた前期難波宮。

奥の石造りで一段高くなっている壇が、726年から造営された後期難波宮(【奈良の大仏】を造らせた聖武天皇が造らせた)の大極殿です。

 

 

さて、ここで「大化の改新(たいかのかいしん)」という言葉が出てきましたね。

学校で必ず習いますが、忘れている方も多いと思うので、ざっくりと説明します。

 

昔々、日本の各地には豪族達がいて各地の民を治めていましたが、天皇が奈良の橿原に即位して「この地を一つの国にまとめて、一つの家族のように暮らそう!」と政治を始めます。

 

国造りに大きな役割を果たしたのが推古天皇の甥である聖徳太子(しょうとくたいし)と、豪族の蘇我馬子(そがのうまこ)。冠位十二階や十七条憲法を定めるなどし、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立をしました。

 

聖徳太子で有名なのはこの言葉「和をもって尊しとなす」ですね。

 

しかし聖徳太子亡き後、各地の豪族達が税などを天皇に献上しない(量を少なくするなど)して、力を増強。

その中でもとりわけ力を持ったのが、聖徳太子と共に働いた蘇我馬子(そがのうまこ)の孫である蘇我入鹿(そがのいるか)。

蘇我入鹿は同族から次期天皇を出すために、聖徳太子の血を引く上宮王家を滅亡に追い込んだ強欲者で、しまいには天皇以上の力を持つに至ったため、「天皇中心の政治を取り戻したい!」と決起した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ。当時19歳)と、神祇を職とする一族で蘇我氏の専横を憎む中臣鎌足(なかとみのかまたり)が手を組み、645年6月に奈良で蘇我入鹿を殺します。これが「乙巳の変(いっしのへん)」と呼ばれるものです。

首をはねられたのが蘇我入鹿(そがのいるか)。

上の方に描かれた、背を向けて立ち去る女性は、当時の天皇である皇極天皇。

ちなみに、入鹿(いるか)を殺された父親の蘇我蝦夷(そがのえみし)は、翌日、舘に火を放って「天皇記」、「国記」、その他の珍宝を焼いて自殺してしまいます。(国の歴史書がここで燃えてしまったので、中大兄皇子の弟である後の天武天皇が、日本書紀と古事記の編纂を始めた。天武天皇は初めて「天皇」と「日本」という呼び名を用いた人でもある)

 

 

乙巳の変(いっしのへん)後、中大兄皇子と中臣鎌足は皇極天皇を退位させて、皇極天皇の弟「孝徳天皇」を即位させ、中国から帰国した留学生と共に、すべての土地と人々を天皇が治める新しいシステムを作りました。

  • 豪族は貴族となり、各地を治める役人になった。都から役人を派遣して、中央の政治が隅々まで行きわたるようにした。
  • 豪族が支配していた土地や人々を、国のものとした(公地公民)。
  • 朝鮮半島や中国からの侵略に備えて、九州北部での兵役の義務をつくった。
  • 戸籍をつくって、農民の納税システム「租・調・庸」を作った。

租(そ)は、稲の採れ高3%
調(ちょう)は、織物や地方の特産物を納める
庸(よう)は、年に10日間都で働くか布を納める

 

これらの改新は、中国にならって初めて元号を「大化(たいか)」と設定したことから「大化の改新」と言います。(元号は645年の大化から今も続き、令和)

 

ちなみに、中臣鎌足は、後に「藤原」の名前をもらいました。

「藤原氏」…、これも学校で習いましたね。後に天皇のほとんどの后・妃を身内から出し続けて天皇の外戚となり、1200年以上もの間、一大勢力であり続けた一族です。

奈良の春日大社(かすがたいしゃ)は、藤原氏の氏神を祀っています。

 

 

 

さてさて、歴史の振り返りはここで終わりまして、乙巳の変(大化元年、645年)ののち、孝徳天皇は奈良から大阪の難波に遷都し、宮殿は652年に完成しました。

これが「難波宮(なにわのみや)」です。

難波宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であったそうです。

 

 

大極殿は、天皇が国家の公式行事をおこなう際に使用したとされるところです。

 

 

中央大通り側から撮った写真。

息子が立っている場所が大極殿後殿で、その後ろに大極殿があります。

 

 

大極殿に上がってみました。

柱跡の復元から見て分かるように、すごく立派な宮殿だったようです!

 

 

「跡地だけじゃ満足できないわっ!」という方は、ぜひ近くの「大阪歴史博物館」へ!

次の記事で紹介しますが、何枚か館内の写真を貼っておきます。

立派な柱!

難波宮の柱もこんなふうだったのかしら。

 

 

当時の人の再現マネキン。

 

 

館内で流されていた映像。

かなり豪勢ですね!

歴史ロマン~~!

 

 

大阪歴史博物館の窓から見た、難波宮跡。

 

 

こちらが、大阪歴史博物館で、難波宮から徒歩5分もかからない距離にあります。

特徴的な巨大な建物で、地図が無くてもすぐに行ける距離!

・・というのも、もともと難波宮の遺跡は現在の馬場町・法円坂・大手前4丁目付辺まで及んでおり、大阪歴史博物館や【NHK大阪放送局の複合施設】がある一角も難波宮の跡であったようです。

大阪歴史博物館の地下1階では、地下遺跡の様子を見学することができます。

次の記事で、大阪歴史博物館を紹介したいと思います。

 

次の記事はこちら

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(この旅行記は2019年です)

 

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交通アクセス

谷町四丁目駅から徒歩5分。

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